鴻之舞金山~閉山式

1、閉山の背景

 日本の東西を代表する"鴻之舞鉱山"と、四国の"別子鉱山"が末期的な状態になっていた昭和42(1967)年、日本は外貨準備金が増え純債権国になり、その2年後には国民総生産(GNP)がアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国へとなりました。大阪万博など日本中が景気に沸いていました。
 この中で住友金属鉱山株式会社は、国内外で戦略的な投資を行い、新しい時代をめざそうとしていました。同時に同社では、上記の二つの鉱山とも昭和40年前後頃から赤字が巨大化してきており、閉山への契機を見はからっていました。
 鴻之舞鉱山では、戦後復興の支えとなった住吉坑が昭和42(1967)年に終坑し、次いで開山当時から主力であった元山坑が昭和46(1971)年をもって閉坑しました。いよいよ関係者も閉山が近いことを感じるようになりました。
 
「首脳陣の間では、"可及的すみやかに、かつ円滑に有終の美"を遂げさせるため、別子を優先し、鴻之舞を追従させることが暗黙の了解になっていたと思われる。」 住友鴻之舞金山史では、当時の様子をこのように述べています。

 別子銅山では、昭和48(1973)年、労働組合に閉山方法を提示し、7月に円満解決しました。同鉱山は、元禄4(1691)年の開坑以来約280年の長い歴史に幕を閉じました。

 鴻之舞鉱山の閉山計画の骨子は、
「昭和48年2月に組合交渉を行い、4月以降操業規模を縮小して、組合との協議を6月に終了し、9月には人事処理を完了し、撤収作業は9月から始めて昭和49年3月に全閉山作業を完了する」と、いうものでありました。

 これを受けた鴻之舞労働組合側は、昭和48(1973)年2月18日に臨時大会を開催し、4月9日には住鉱連の臨時大会を鴻之舞の地で行い、「鴻之舞合理化闘争方針」を採択しました。この結果を受け、ただちに13日から労使交渉が開始され、組合側の対案が提案されました。
 その対案は、会社側に経営責任の明示を求める一方で、"閉山止むなし"とする内容でありました。
一、昭和46年に会社は、長期操業に最大努力することを約束してきたのに、一年有余で閉山を提案してきた。この経営責任について明示されたい。
一、現行体制は四月末までとする。五月以降は成り行き操業とする。但し、閉山終結の時期は撤収作業を含め十月末とする。
一、人員転出の時期を、十一月末とする。
一、転出者の意向聴取、転勤、再就職先の確保、転出者、退職者に対する特別措置を講じる。など(住友鴻之舞金山史より)

 このように、別子鉱山の閉山の方向性がすでに決まっていたこともあり、会社側の最善提示もあり、鴻之舞鉱山の閉山が労働組合側も淡々と看取りましたが、現実的には従業員や住民一人ひとりにとっては愛着と誇りある会社と仲間、故郷との人生的な別れになることでもあり、老若男女子どもたちから皆、心の底から寂しく悲しい悔しい気持ちと、行く先の不安で一杯であったと云います。


2、閉山式

 閉山式は、昭和48(1973)年5月24日、春の晴れ渡った青空の日に、開催されました。
鉱山長、本社役員、労組委員長、鴻之舞OB代表、従業員、紋別市長以下関係者180余名が出席して、執り行われました。
鉱山長の経過報告、本社役員挨拶、労組委員長挨拶、紋別市長挨拶の後、小宴に入り、重苦しい雰囲気の中で別れを惜しみ、最後に「鴻之舞鉱山歌」を全員で斉唱して散会したと云います。

閉山式の様子~著作提供:八鍬金三氏

閉山の理由については、昭和48(1973)年2月15日の段階で、すでに鉱山長名でメッセージが出されていました。その内容は、
「(前略)、思えば・・・、たゆまざる先人の血と汗の結晶により繁栄を続け、東洋一の金山としてその名を内外に馳せてきた鴻之舞でありますが、・・・次第にその力が低下し、遂に一昨年には大幅な縮小に踏み切らざるを得なりましたことは、皆さんのご記憶に新しいところであります。・・・鉱山は次第に掘りつくし、一方、市況の低迷と鉱害対策費の多額の支出などもあって、経営状態は極端に悪化し、折角の全員の努力にもかかわらず、これ以上操業を続けることが不可能となったわけです。・・・まことに残念ながらヤマの天寿としてあきらめざるを得ないと思います。この閉山によって住みなれた平和郷を離れ新しい土地で新しい生活を開拓することになりますが、そのご苦労を深く推察すると共に皆さんのご多幸を心からお祈りするものであります。(後略)」(住友鴻之舞金山史より)

 こうして、大正6(1917)年に住友により買収され、東洋一の金山として繁栄した鴻之舞鉱山の安全安心で教育医療の高水準だった企業城下町の地は、なくなっていきました。東洋一の金山を誇った鴻之舞鉱山は、実質的な操業期間56年の歴史に幕を閉じました。

<看板写真著作提供 紋別市立博物館>