心のアルバム 札幌市 長田俊子様 
           

(1) 神社の縦長屋

 四方が高い山に囲まれた鉱山町は、モベツ川を右に左に大きく蛇行させながら、僅かな谷間の平地を道路が走っている。
 長屋は、その道路をまたぐ形に建っていた。私が生れた昭和六年頃は、鉱山はまだそんなに大きくなくて、元町と呼ばれたこの町が中心だったと思う。
道路に対し直角に縦に建っていたその長屋は、二棟並んでいたが、わが家は神社に近い山側で、通称神社の縦長屋と呼ばれていた。

 両親は、昭和四年に結婚したという。この五軒長屋の左側から二軒目の家が、鉱山暮らし四十年の歴史の始りだったことになる。
 長屋には、上の方から沢水が流れていて、それは大事な生活用水だった。沢水は道路の下を通って、モベツ川へ流れ込む。この沢の流れを左に下の縦長屋の前を通って歩いていくと、独り者の宿舎青雲寮がある。青雲寮の前の大きな道路を横切って更に進むと、右に歯科医院、左に診療所、そしてお風呂屋さんがあった。

 私が四歳の時、弟が生れたので、五、六歳までは父と男湯に入った。湯上りに、父はよく高下駄で、私を肩車に音痴の歌を口ずさんで歩いた。本当の音痴
だった。目線が高くてうれしいのだけれど、恐かったのを覚えている。
 五軒長屋は、小さな玄関を入ると台所、板の間が六畳、奥の寝室も六畳で押入れがついていた。トイレは五軒共同である。奥の部屋の引戸を開けると土
間だったから、表は別々でも裏は五軒がつながっていた。
 夜中のオシッコは、小さい私には恐くて一人で行けない。母を起すと『一人で行きなさい』。ボンヤリした小さな裸電球、たまには嫌いな猫がいて『キヤー』と泣声で逃げ帰ると、引戸のそばで見ていてくれる母は、『シー、みんなを起してしまうでしょ』と叱られた。
 夜半にウトウトしていると、カタコトと下駄の音が聞えたりする。長屋の誰かがトイレに行くのだとわかっていても、体をかたくして布団にもぐり込んだ。
 長屋には、同じくらいの子どもが沢山いたので、天気の良い日はみんな泥んこになって遊んだ。私は、小さな時から腺病質で、よく流行物を拾ってきたという。今のように予防注射がなかったから、百日咳、麻疹と、誰かが罹ったと聞くとすぐにもらってしまう。
 物心が付いてからも、元気に遊んでいる近所のお友だちを、泣顔で見ていたのを思い出す。おまけに薬を吐いて受けつけない。両親は苦労したらしい。

 雨の日や寒くなって外の遊びができなくなると、狭い家の中で体をもてあます。そんな時よく遊んだのが、押し入れに入らなくて部屋にたたんで積んであった藁布団。今のようにマットレスがない時代、藁布団は温かで重宝だった。男の子は広げて相撲の土俵がわりにし、何枚も積んで、トランポリンのように飛んで跳ねて遊んだ。遊びが激しくなると『中の藁が粉々になるよ』と言って母は叱るのだが、藁布団はかっこうの遊び道具だった。

 隣りの家とは板一枚で仕切られ、暮らしむきが手に取るようにわかって隠し事などできない。たまたま節穴が抜けて、その穴からは鉛筆やまるめた紙などをやり取りして面白がったりした。勿論、夫婦喧嘩なんか筒抜けだったことだろう。みんな同じく貧しかったから、暮らしの差はなかった。父が晩年、よく言っていた言葉が忘れられない。
『鉱内の切羽で削岩機を使って、いいお金を取っていた人達は、みんなヨロケになって早死にした。何せ、粉塵が舞う採鉱の最前線では、日本手拭で鼻マスクだけだったから…』と。後年、硅肺に罹って会社と裁判にもなった人がいたが、昔は硅肺のこわさも気にせず只々働いたのだという。
 採鉱夫、支柱夫、運搬夫、そんな職場の呼称でその家の収入が、程々にわかったらしい。それも健康でなくては働けない。一ケ月幾日働いたかで、収入
は違ってくるのだ。因に七十三歳で亡くなった父は、採鉱夫ではない。

 私の記憶の中の父は、鉱内で運搬夫を幾年かやっていたようで、鉱内に持って入るカーバイトを入れたカンテラの調整をしていたことを思い出す。父たちの勤務は、一番方から三番方(※入坑する勤務時間帯)まであった。増産増産で鉱石を掘り出していたのだろう。カーバイトの小さなカケラをもらって、土の上で水をかけると『ジュウジュウ』とあぶくを出して熱くなる。それが面白くて、よくねだった。
 板の間には、薪ストーブがデンとあって、暖房を兼ねてご飯を炊いたり、おかずを煮たり。七輪は、ストーブの補助をしたが、ストーブにいい燠が出来ると、炭の代りに七輪に移していたのを思い出す。

 丸い卓袱台で頂く食事は、ご飯に味噌汁、冬などは糠漬のニシンに漬物があれば上等。風邪でもひいて喉が痛いと言うと、卵味噌のおかゆか、大好きな生卵をかけたご飯が食べられた。一年に何回食べられたことか。
 鮭も塩がきいていて、焼くと切身が塩で白くなった。私は筋子ご飯が大好物で、『赤まんま』だとよく食べた。普段は食が細いので、食べ過ぎを両親は心配した。あの頃の塩鮭や塩鱒は、『猫またぎ』といって魚好きの猫さえまたいで歩いたとか。
一年中燃すストーブの薪は、山へ行って倒れている古木を、運びやすい大きさに切って集めて置き、冬になって雪が積ってから足に『かんじき』をはいて、ロープを養生の肩あてに乗せて、重そうに木を引いて来る。逞しい父の姿は、子ども心に頼もしかった。父の晩年、その頃の話を聞いた。『山から木を取って、とがめられなかったの』、『倒れている木を持って来るから大丈夫』、 『木を運んで来れない家では?』、『そんな家では買うんだよ』不足分は買っていたこともわかった。薪を焚き付けるのは、大事に山から取ってきた『ガンビ(※白樺)の皮』。父は元気で山歩きも好きだったから、かなり貯蔵していた。

 前年集めた木を、ストーブに入るくらいに切り、割って乾燥させる。薪切りする父の手伝いをした。
切られる木にチョコンと乗っかって動かないよう重しの役目をする。オガクズが風に舞って目や鼻に入る。薪の仕度が出来た頃冬将軍がやって来るのだ。
乾燥の悪い木は、ストーブの中でジュージューと音を立ててアブクや脂を出す。暖かい日は、外の煙筒の曲がりからもポタポタと、赤ちゃんのよだれのように脂が落ちた。しばれると褐色のツララが下がる。
煙筒がつまったり、風の吹き方によっては煙りが戻って、家の中が煙だらけで、目や鼻が痛い。明日は風が止むといいなー、と思いながら布団に入る。

 朝寝坊した近所の小母さんが、弁当箱を持って『ご飯貸して』と飛び込んできたり、味噌や醤油の貸し借りは日常的、困る事があると助け合っての暮らし。隣りの小母さんが、具合が悪くて寝込んでいると聞くと、おかゆを煮て届けたりした。
 お正月の餅つきも、『明日は朝が早いからね。早く寝なさいよ』と母に言われて、わくわくしながら布団に入るが、中々眠れない。
 朝は三時頃から、隣り近所集まって威勢よい掛け声と共に賑やかに餅つきをする。一軒で一日か二日、餅がつけると、『今年もお陰様でよいお正月が出来るね』と言って喜び合う。『まずまずよかった-』お国なまりの声が、今も聞えてきそうだ。
 わが家は父の主義で家財はなし、着る物も僅少限度の暮らし。友達が遊びに来て『俊ちゃんの家、何もなくて貧乏くさいね』と言われたと、母は笑って
話してくれた。

 何時頃だったか定かではないが、会社主催の祝事の式典に父は案内をもらって出掛けてた。暫くして父が、プリプリして帰って来た。母がどうしたの?と訊いた。羽織を着ていない人の出席は駄目だ、と言われて戻って来たのだという。勿論袴は穿いていたのだが。父は翌日、早速羽織を作らせた。夏だったので絽の羽織を。会社は、仕来たりにはうるさかったらしい。貧しい労働者であっても、誇り高い父は傷ついたのだろう。一本筋金が通っていたから。

 軒先きの長いツララからポタポタと雫が落ちるようになって、春の足音が聞こえる頃、家の前の沢水は、日に日に水嵩を増してくる。母は神経質に大きな声で、近所の子どもたちも一緒に『水が多いから流されないようにね』と注意する。
 道路の雪が融け出すと、馬糞が先に顔を出す。うっかり転んだりすると悲惨な目に。
 山の木々が芽吹いての楽しみは『タランボ』と呼んだ『タラの芽』、『蕗』、『わらび』、『独活』などの山菜とり。何と言っても王様は『ぎょうじゃにんにく』当時は 『アイヌネギ』といった。

 沢水に掛けられた小橋を渡ると、神社の参道がある。その参道を更に横切ると、鉱山の最初の沈殿池があったが、もうグランドになっていた。
 娯楽のない鉱山の暮らしの中で盛んだったのが、様々な種類のスポーツ。私が五、六歳頃には、野球の試合もよくやっていたし、買物の母について配給所に行く途中の警備詰所前では、銃剣術の練習をしている小父さんたちがいた。防具をあてていたが、子どもの目には恐ろしく写った。剣道や柔道、弓道など、後に立派な光風殿も建てられた。鉱山の代表として、他流試合にもよく出ていたらしい。

 鉱山も段々栄えて、喜楽町が出来て、旭町、金竜町にも社宅の建設が進んでいた。
 私が六歳になって、来年は小学校に入学だと楽しみにしていた昭和十二年、金竜町へ引越しをしなければならなくなった。青雲寮の隣りが恩栄館、その
隣りが小学校だったから、通学が遠くなる引越しは嫌だった。

 五軒長屋で育って忘れられない思い出の一つが、時々遊びの途中に寄った青雲寮。ここには、シナちゃんとみんなが呼んでいた賄い係のお姉さんがいた。お姉さんは『こつちにおいで』と手招きして、大きな釜からご飯のおこげを取り出し、お塩を付けておむすびにしてくれる。おやつなどあまりない時代、友達と遠慮しながら頂いたおむすびの味は、七十年も生きた今もなつかしい味覚として残っている。夏の暑い日など、おひつであめてきたご飯やおこげなど水で洗ってザルに上げ、乾燥させて油で揚げてくれた。おいしいおやつだった。ご飯つぶ一つでも粗末にすると『お百姓さんに申し訳ない』と厳しく叱られた。

 私の父親は面倒見の良い人で、職場で弟分みたいに可愛がっていた若い人がいた。(藤田さんといった) 父が突然彼をわが家に連れて来た。
 藤田さんは夜型人間だったらしく、朝寝坊しては会社を休む。独身だったから、一度は声を掛けてくれても、起きないとそのままになる。静かになってよく眠れる。気がつくとお昼。働かないから借金が出来る。父は見かねて家に連れて来たのだ。
 朝『おんじー起きろ、こらおんじー』と父が起していた様子が今も目に浮ぶ。三ケ月も置いていただろうか、その内働いて借金もきれいに返して古郷へ帰った。近所の人は 『食扶持ももらえないような、ぐーたらを連れて来て…』と笑っていた。ハンサムで優しかった藤田さんの消息は、その後聞いていない。
 父の信条は、『人間は一人では生きていけない。みんなで助け合って生きるんだ。困っている人を見たら、手を差しのべなさい。そして、その人からお返しを求めてはいけない。廻り廻って自分が、あるいは自分でなくても、子や孫が、いつか他の人に助けてもらうかも知れないのだから』。私たち子どもには、度々実践して見せてくれた。只一度だけ『どうしても』と頼まれて、ささやかな暮らしのわが家には、大きなお金を都合してあげた時、期限が来ても返ってこなくて催促した。借り主は延期を申し出た。
それが二、三度続いた時『返す金などない。逆さに振っても鼻血も出ない』と言ったという。
 その時の経験から『お金だけは貸してはいけない。義理があって断れない時には、返してもらわなくても暮らしむきに困らぬ程のお金を差し上げなさい。借金の保証人にもなってはいけない』これは父の大事な教えであり遺言だと、今も思っている。

 大きな出来事の中に、父が熊を手に入れたことがある。春先、何時ものように山へ木を取りに行って穴熊を見つけて帰ってきた。穴熊の入口を、木の枝などを置いてふさいで来たと言う。その夜の父は興奮していた。翌日仕事仲間を二、三人誘って、目印をたよりに、山へ向かった。
 母や私は無事に帰って来ることを願う。揃って無事に戻ったのは、夕方だったと思う。父たちが近所の人に大声で話すのを聞くと、穴熊の後の方から追い出す役目が父で、銃を持っている仲間が穴から出て来るのを一発で仕留めたと言う。仕留めてみると、あまり大きくない中型の熊だったとか。熊は子どもたちの目に付かない所で解体し、肉を隣り近所に配った。その肉は臭みがあって、おいしくはなかった、という話だが私は覚えていない。
 熊の皮は、どうなったのかも忘れたが、只、熊の腸は、安産のお守りだといって乾燥した物を五センチ程に切って、お腹の大きな人に差し上げていた。
私が結婚し、長男を妊娠した時『これが最後の熊のひゃくひろよ』と母が、私の腹帯につけてくれた。白い木綿の小さな袋に入った熊のお守りは今も手元にある。

 五軒長屋の記憶の中で、後々私の人間形成の原点になったものに、お寺のお坊さんの紙芝居がある。
 わが家の左隣りは、母の叔父一家。子だくさんで叔母さんは全部で十四人の子どもを生んだ。五軒長屋時代も、七、八人いたので、二間で狭い長屋は自分で下屋を出していた。石川県能登の出身で、家業は左官である。
 能登からは、毎年ニッカボッカにハンチング姿で、早口の訛り耽りも賑やかに左官職人が、同郷の叔父さんの家にやって来る。叔父さんは (母もそうだったが)熱心な仏教の信徒だったから、毎日お経を上げる声が聞える。私も聞えてくるお経の真似をした。
 そんなある日、母に連れられて叔父さんの家で紙芝居を見ることに。近所の子どもたちも、みんな誘われて集まっていた。紙芝居は、法衣姿のお坊さんが持参した物で綺麗な色彩で画かれていた。色とりどりのお花畑を散歩するお釈迦さま。そのお釈迦さまが、ふと足を止められて覗かれた古井戸、その底は地獄。その中には、もだえ苦しむ人々が沢山いる。じっとご覧になっていたお釈迦さまが、一人の若者に目を止められる。(若者の名前は忘れたが)生前、悪行の限りを尽したこの若者が、ただ一度だけ慈悲の心で命を助けた蜘味のことを思い出された。お釈迦さまは蓮の葉の上から、一匹の蜘珠を手に取って、その古井戸に落された。若者は、その蜘昧の糸を伝って一生懸命登って来る。(古井戸から必死に上をむいて登って来る絵の中の若者の表情を、はっきり覚えている) そして、その若者が、自分の後から次々登って来る人たちに気がついた。自分が助かる為のこの細い蜘妹の糸に、大勢の人がついて来たのでは切れてしまう。なんとか自分だけは助かりたい。と思った途端に蜘昧の糸は、手元からプツンと切れて再び地獄の底へ落ちていった。
 紙芝居の粗筋は、以上のように記憶する。お坊さんの語りと、一枚一枚の紙芝居の情景は、今も目を閉じると鮮明に思い出される。成長して、その紙芝居の原作は、芥川龍之介氏の小説『蜘昧の糸』であることもわかった。
 常々、父母が言っていたが、悪い事をすると地獄に落ちる。嘘を言うな。嘘は泥棒のはじまりだ。人の物を盗むな。誰も見ていないと思っても、悪い事をすると『天知る地知る我知る人知る』と言って諭された。
 七十一歳になった今、蜘昧の糸で学んだ事や、父母の教え通り生きてきたか、と問われれば『ゴメンナサイ』と謝罪しなければいけない行いも。でも、六歳までに学んだこれらの事は、私の心に深く根づいて、生きる指針になっている。

 豊かな自然の中で、温かな人情にあふれた五軒長屋。家の前の神社の参道を登っていくと急な階段があって、その階段を数えて登ったのに、段の数は記憶にない。傾斜が急で、途中で立ち止って下を見ると、恐ろしくて足がすくんだ。成長してからも疲れている時、よくこの階段から落ちそうになる夢を見た。
 しかし、遊び馴れ親しんだ山神社。境内の魔よけの狛犬さんが守ってくれたのか、出生から六年間、無事に過した神社の縦長屋の暮らしである。
 ※この項を書き終えて、残念なことに元町の商店街に全く触れていない。学校の前の、鉱山で只一軒の伊藤旅館、山田豆腐屋さん、駐在さんに裏の鴻恩
寺さん。写真屋さんに、お菓子屋の松本さん、いつつ屋さん、大きい体で布団の綿をリヤカーで引いて歩いていた武田の小母さん。暮には廉売の小屋が並
んだことなどみんな懐かしい。

(2) 金竜町とお嫁さん

 金竜町は、元町から喜楽町、旭町の次の町である。
金竜町の先には、泉町がある。金竜町の社宅は八軒長屋。長屋の真中に防火壁がある。玄関を入ると台所、六畳の板の間に奥は八畳だった。何より嬉しかったことに、戸別にトイレが付いていた。同じような八軒長屋が幾棟も並んでいて大きな住宅街に思えた。

 金竜町に移ってしばらくして、燃料も石炭になったように思う。薪ストーブから石炭ストーブになって、母が困ったことは、煮炊きする鍋の底が煤で汚れることと、煙筒掃除を頻繁にしなければならないことだった。働きに出掛ける父を頼れず、母も高い梯子に登って煙筒掃除をするようになった。
 飲み水は水道になり、社宅と社宅の間に一基ずつあった。水汲みは子どもたちの仕事。欲張ってバケツに沢山水を入れると、家まで運ぶ途中、水はこぼれて半分になる。高い山からの沢水を集めて豊かに流れるモペソ川は、鉱山の人たちの命の水。家庭に届く水道の水源地は、旭町にあった。
 その川は、泉町の更に上から左側の山の渕を流れていたが、旭町と喜楽町の境で大きく蛇行し、右側の山側に流れを変えている。元町の下の末広町や栄町までこの流れは変らない。

 喜楽町と旭町の境には、立派な橋がかかっていたが、この橋の修理の期間、六、七十メートル上流に仮橋がかけられた。この仮橋に、軍服姿の幽霊が出るという噂が広がって、子どもたちは恐がったものだ。その幽霊は、六尺豊かな坊主頭で、見た人が何人もいるとか。静かな町の噂話は暫く消えなかった。

 旭町は、道路の両側に社宅があり、喜楽町の橋の近くが商店街。
 酒屋の城尾さん、魚屋の川口さん、豆腐屋の高橋さん、その頃の豆腐屋さんは、リヤカーでラッパを鳴らして売りに来てくれたが、入れ物を持って買いにも行った。納豆や油揚げなども一緒に。床屋の真島さんは、父母の出雲の神様(仲人のこと) で、盆や暮れには必ず連れられて行く。祖父母のように可愛がってもらった。小学校の五、六年頃になると、暮の忙しい時には手伝いに行って、タオルを洗ったり、切った髪の毛を等で集めたりした。床屋さんには、職人さん、見習さんもいて、お昼のご飯は交代でいただく。味噌汁がトロロ昆布で、おいしく、初めてお駄賃をもらったのが、この床屋さん。小学校に入学してからは、毎日歩いて通った街である。

 旭町の道路は、なだらかな坂になっていて、坂道を登りつめたところに世話所がある。世話所は、社宅住いの従業員の為の、万相談を引き受けていた。困り事があるとみんなが相談に行く。鉱山が『揺り寵から墓場まで』と言われたゆえんである。後々の話に、鉱山から外へ出た人の話として『役所の手続き一つにしても困った』と聞いた。鉱山の厚い庇護のもとにいたことを、改めて知ったという。
 旭町の山側の社宅も、段々になっていたように記憶している。世話所の裏側にあたる、この山側の社宅の一番上に、馬小屋が幾つかあって、鉱山の運搬事業を支える馬や人が住んでいた。

 昭和初期は、鉱石の運搬も馬車だったらしいが、病人が出て鉱山の医者の手におえない時は、馬で紋別へ下げたと聞いた。冬は橇に湯タンポを幾つも入れて馬で走ったのだという。シャンシャンと馬の首の鈴の音は、幼い日の思い出と共に懐かしい。
 私が、金竜町へ引越した頃は、まだ鉱山が使用する資材の移動や(丸瀬布からの索道が資材を輸送していた。大きな四角いバケツのような鉄の容器で様々な資材が運ばれていた。たまには、その容器に人が乗っていて、子どもの頃『人だ人だ、人が乗っている』と大騒ぎしたものだ。少し大きくなってからは、ワイヤーの点検や油差しの為だったと知ったが)生活面、ゴミ回収、トイレの汲み取りなどみんな馬で、ずいぶんお世話になった。名字だけは今も覚えていて、愛称で『のうさん、のうさん』と呼ばれていた藤田さん。進藤さん、海老名さん、山本さんに石川さん。石川さんは現在は東京方面で暮らしていて、六、七年も前になるでしょうか、自分史をつくったからと、親しかった方々に『読んで下さい』と届けたという。私もお借りして拝読した。鉱山で馬と一緒に働いていた頃の石川さんは、物静かで口数も少なく、度のきついまるで牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけた小父さんでした。立派な自分史を書かれたことに心から敬服した。
 その本の中で、鴻之舞鉱山生れの娘さんが、苫小牧市長の奥さんになっていらっしやることを知った。
今年で何期になられたのか、よく記憶していないが、初めての選挙では、資金面でも多くのご苦労があって、みんなで力を合せて協力し、当選した。その時の様子が詳しく書かれていた。あの鉱山暮らしを共にした娘さんが『苫小牧市の最も責任ある立場の人を陰で支えている』。誇らしく嬉しく思った。当時の娘さんを覚えていないが、彼女のお母さんは何時も笑顔で元気がよくて、活き活きしていた。遠くからでも声が通る人だった。
 『のうさん』、海老名さん、進藤さん、山本さん、みんな故人になられた。石川さんはどうしていらっしゃるやら…その後の様子を伺う機会がない。『のうさん』や海老名さんは、父と親交があって、よく私の家にも来てくれた。古郷宮城県での青年時代には裸馬に股がって飛ばして歩いたという程、馬好きだった父。よく小父さんたちと馬のことを話題にしていた。一時期、父は古郷宮城県へ働き手を募集に出掛けた。『きたれ安住の地、東洋一の金山へ』こんな宣伝用パンフレットを鞄につめて。 父が募集で連れて来た人たちは、家は代々米づくり農家の、次男三男たち。父も次男だった。父の弟や従弟もやって来た。時々わが家にやって来て、お酒を飲みながら古郷の話をお国耽りで、声高に話していた。

 父の弟は、木工場に勤務していた。半年も経った頃、石巻から美しいお嫁さんがやって来た。わが家と同じ長屋の隣りに住むことになり、母に言われて叔母さんとはお風呂も一緒に行った。叔母さんは、都会的でその頃の鉱山には見られない程おしゃれな人。練り白粉で首化粧していたから、お風呂では、みんながジロジロ見た。私は、見られる叔母さんが気の毒で、私も恥ずかしかった。
 その内、叔母さんは首化粧をしなくなった。何か困る事があると、母を『義姉さん、義姉さん』と呼んでなんでも相談していた。翌年(昭和十五年)長男が生れた。わが家も同じ年に三番目の弟が生れて、六人家族になった。
 叔母さんは、その年二人目の赤ちゃんを妊娠し、子どもが二人になってからでは大変だから、と言って一家で石巻に引き上げることになった。叔母さんが、長男を出産する時『叔母さんがうんとお腹が痛いと言ったら、そこの板壁を叩いて合図するんだよ』と母に言われて泊まることに。叔父さんは仕事で留守の夜だった。私は心配で眠れず『俊子ちゃん、もう駄目。母さん呼んで来て!』と言われて、胸がドキドキしたことを想い出す。優しかった叔母さん。無口だったが、愛情深い叔父さんとの別れは辛かった。叔父さんは三男坊だったから、三人姉妹の長女の叔母さんと結婚して養子になった。石巻に帰って木工場で働いていたが、いくらもしないで召集令状が来て、戦地へ。

 叔父さんは、戦争では死ななかった。後で聞いた話によると『ビューン、ビューンと鉄砲の弾が飛んで来る。右の人も左の人も当って死んでいくのに、俺には当らなかった。考えてみると不思議な事だ。何かに守られているように思った』。
 叔父さんは、長男の下に五人の女の子をもうけた。
木工場は自分の会社にし、後を長男にまかせて、辛い療養生活を過した後に亡くなった。晩年の叔父さんを優しく支えた叔母さんも昨年亡くなった。
 『一度鴻之舞へ行ってみたいの』と電話する度に言っていたが、遂にかなわず。

 昭和十四年頃、母の古郷石川県から、母の二番目の弟、私にとって母方の叔父さんがやって来た。叔父さんは、面接試験の後、労務係の採用になる。
 その頃から食糧事情が悪くなり、青雲寮の食事が辛かったようだ。コテボといった豆入りご飯に慣れなかった。下痢が続いたことと、労務係の事務所はなんだか意地悪で、叔父さんの言葉では『人が悪いがね。妬みや嫉みは、好かん』と言って、二、三ケ月で古郷へ帰って行った。それも両親に話をすると止められることがわかっているので、青雲寮に布団などそのままにしての帰郷である。
 父がその事で母を叱って、子ども心に胸が痛んだ。
お菓子屋の母方の叔母さんが間に入って取りなしてくれたが、暫く家の中が暗かった。能登へ帰った叔父さんは、インテリだったので金沢県庁に勤めたが、後にやっぱり赤紙が来て、新婚間もなくだったのに南方に行かされて戟死した。叔父さんが戦地へ行ってから、女の子が生れたのだが、一度もその手に抱くこともなく、その子も父親の顔を知らずに育った。
 父が募集で連れて来た従弟たちも、たいしたお金も残さずに古郷へ帰って行った。みんな体格が良く、兵隊検査は甲種合格だったから間もなく戦地へ行った。

 この原稿を書くことになって、奇しくも今日はお盆の十六日。亡くなった人々が、一年に一度この世に帰って来る日である。
 昨日は、戟後五十七回目の記念日。改めて、直接戦地で亡くなられた方、日本本土で原爆やその他様々な戟禍で命を失った多くの方々、すでに故人になられた親しかった方の御霊に深い祈りをささげた。

 さて、脇道にそれてしまったけれど、旭町の坂道を登りつめると世話所があると先に書いたが、世話所はそれぞれの町にもあった。坑外勤務になっていた父も、この世詰所勤務の時があり、十二時間勤務だった。
 世話所の少し手前で道路は二股になっていて、学校の行き帰りにはどちらにするか友だちとジャンケンで決めたりした。
 上の道が本通りなのだが、世話所から金竜町の商店街までは、道路の両側が笹薮と細い潅木が生えているだけで家がない。それに途中に山に向う道路があって二百メートルも進むと、赤い帽子によだれかけを何枚も重ねて掛けたお地蔵さんが立っている。更に、その奥に進むと火葬場がある。学校の帰りに、高い煙筒から煙が出ているとよけいに上の道は歩きたくなかった。風の吹きようで煙が流れて来て、臭うこともあったから…火葬場の煙はなんだか頻繁に上っていたように思う。
 鉱山暮らしの中で、何人の人と別れただろうか。
お骨を拾って骨壷にすぐ入れるのではなく、箸から箸に渡すことを覚えたのも、この火葬場だった。
 火葬場の周りは、木々も高く大きくて薄暗い。当時は、生れてすぐ亡くなる赤ちゃんもいたし、お産で亡くなるお母さんも。そして結核は、不治の病いだったし、鉱山の事故で命を落す人もいたから、どれ程の人が、ここでお骨になったことか。私も火葬場へ行ったのが、誰とのお別れであったのか、あまり記憶がない。

 鉱山のお葬式は、昔は自宅で小さな祭壇を作って行った。後にはそれぞれの町に倶楽部といって冠婚葬祭で使用出来る施設が出来た。出棺の時には、近所の大人も子どもも集って、手を合せてお別れをする。集ってくれた子どもたちには『ご供養です』と言って、祭壇に供したお菓子を配ってくれた。
 葬儀の列は、霊枢車にむすんだ白い紐に手をそえて、静かに歩いて行う。男の人は、白の上着に白い袴を付けて、女の人は、着物の上に白衣を着る。頭には白布をかぶるが目の部分だけあいていた。子どもは細長い白布を衿につけていた。葬儀の手伝いは、隣り組みんなが手伝う。死花花(シカハナ)だけは、男の人が死者を弔って手づくり。女の人は料理などを引受けていた。
 葬儀の列は、死花花を先頭に次に蓮の花とか幾つかのお花が続いた。それらの仏事用品は会社で用意してあった。

 金竜町は、山側に商店街、川側に社宅がある。
笹薮と潅木の道の終りに、お風呂屋さんがあり、ご主人のKさんと父が親しくしていた。と言うか酒好きだった小父さんと父はよくお酒を飲んでいた。
気の合う友だちだったのだろう。金竜町に引越して、二、三年経った頃、Kさんの息子さんに父がお嫁さんを紹介した。
 お嫁さんは、現在でも紋別市内で建設業を営むSさんの妹さんで、先に姉さんのご主人で、すでに鉱山で左官業をしていた義兄さん宅から事務所勤めをしていた。その頃の鉱山での結婚式は自宅でおこない、近所の人がさそい合って見にきていた。
 結婚式の日、弟たちと留守番をしていて一番先に泣いたのが私で、父母に『長女のくせに役に立たないねー』と叱られた。親から離れられない情けない子どもだった。母の遠い親戚にあたるお嫁さんは、色白でふっくらとした可愛い二十歳の人。お婿さんは二十一歳で鉱山の測量係に勤めていた。

 結婚式の後は、新婚旅行などない時代で、即、両親との同居生活が始まる。
 わが家とお風呂屋さんは近所、ある朝『小母さん』と泣きながらお嫁さんが飛び込んで来た。『どうしたの』と母。ようやく落ちついたお嫁さんは『朝、姑さんが大事にしている急須をこわしてしまい、代りを買って来たいのだけれど、お小遣いなくて買えないの』とうちあけた。よくよく聞いてみると『一軒の家に財布は一つでいい』と家長である舅さんが言って、息子さんの給料も嫁さんの給料も全部一銭残らず、袋ごと出しているのだという。必要なお金は言えばくれることになっていても、新婚のお嫁さんには言い出せないのだとわかった。急須の前に茶碗も割ったが、それはお嫁に来る時持ってきたお金で賄ったと言う。
 話を聞いた父が、母と相談してお嫁さんを連れてあやまりに行った。そして、若いお嫁さんにはどんなに可愛がってもらっていても、使い道を言えない物もある、と角の立たぬようにお願いした。それからは、給料の中からお小遣いを頂けるようになり、お嫁さんが喜んだと聞いた。母は可哀相にと同情して、お嫁さんの肩を抱いて一緒に泣いていたのも覚えている。お嫁さんとは、大変なんだなーと子ども心に思ったりした。

 お風呂屋さんの道路をはさんだ向いに、山中さんの家があった。私より年長の娘さんが二人いたのを覚えている。夜半にサイレンが鳴って、父母が『火事だよ、近いよ、風の吹きようによってはあぶないよ』と言って寝ている私たち子どもを起した。外へ出てみると、火柱が高く上って燃え盛り大きな火の粉が飛んで来る。体が『ガタガタ』と震えて止らない。
 夜が明けてから焼け跡を見に行った。食器のお椀や木の桶など半分焼け残っていたり、家具なども黒こげになっていて火事の恐さが身にしみてわかる。
母は『泥棒はひと背負い、火事は根こそぎ持って行く。火遊びはぜったいしないんだよ』と言った。何時も聞いていたが改めてわかる。山中さんの火事の原因はよく覚えていないが、家の人は無事だった。

 商店街は色々あって、お菓子屋さんや八百屋さんに肉屋さん、呉服屋さんもあった。学年が一緒だったり、一級上や一級下の子どもがそれぞれいたので、思い出は山程あって書き出したら止らなくなる。
一銭でアメを買いに行くと三ケ、小さな袋に入れてくれる。そのアメは黒い大きなアメで、口に入れると中々小さくならない。ようやく左のホッペに入れると、今度は手で押してやらないと右へ行かない。だが、おいしかった。
 よくあきずに見に行ったのが、馬の蹄鉄屋さん。
蹄鉄屋の小父さんは、鞴の手を動かしながら、真赤に火がおこると、馬の足の爪を切って、それに合せて蹄鉄の形を整える。トンテン、カンテンとリズミカルに。そして馬の爪にジューと付けて釘を打つ。あの臭いが嫌で、鼻をつまみながら見ていた。顔見知りの馬追いの小父さんが馬を連れて来る。いわば診療台みたいな四本柱に、うまくおさまる馬と、あばれて中々おさまらない馬がいて、大きな馬があばれるのは恐ろしいのだが、恐い物見たさに見ていた。時には馬の鼻をねじって、奥歯に鑢を掛けていたりした。

 お使いに行くのは豆腐屋さんだったり、たまには秋葉さんへ玉子とかリンゴを買いに行った。リンゴも玉子も、稲籾が養生の為に入っていて、小母さんが手でその籾殻を横にずらすと、玉子がきれいに並んで入っている。お使いは楽しかった。八百屋の小母さんは色白の美人で、娘さん二人も椅麓だった。
 後に、下の娘さんは札幌のすすきので『鴻之舞』と言う名のおでん屋さんを長くやっていて、古郷を同じくする人たちがよく集った。懐かしい人の消息が聞けたり、偶然、本州から旅行で来たという古い鉱山の人に出会ったりするのが嬉しかった。残念なことに今はもう店を閉めてしまったが…。
 履物屋さんの店先で、色とりどりの鼻緒をながめるのも好きだった。お祭りに買ってもらう時は、どんなのにしようかなーと。
 呉服屋さんには三人の娘さんがいて、貧しい私たちとは違って、何時も椅麗な洋服を着ていて羨ましかった。小母さんは上品な人。
 お菓子屋さんは、母の従弟にあたる人が、東京で何年も修業してきて和菓子屋を開いていた。五、六歳の時、五軒長屋で紙芝居を見せてもらった家である。

 私には、同級生と二つ年上の母方の従妹がいた。
年が近かったので、よく一緒に遊んだ。山イチゴを取りに行ったり、川遊びをしたり、綾取り、おはじき、お手玉など、そうそう、竹とりもした。私はみんな下手。
一年生入学の時、三人お揃いでセーラー服を作ってもらった。一番最後まで、いためず着たのが私だけ。小母さんに『この子は、おしゃれだからね。それに大人の話をじっと聞いていて、おませで可愛くないね』とよく言われた。小母さんがたまに遊びに来ると、母は『外で遊んでおいで』と。
 長屋には隣り組があって、みんな助け合って暮らしていた。よく唄われた歌のように。(トントントンカラリンと隣り組…と)その頃は、隣り組に婦人会も出来ていた。

 この原稿を書きながら、父母が残してくれた古いアルバムを久し振りに開いた。
 白い割烹着の上に襷をかけて、大勢で写っている写真には、鉱山の幹部で後に次長になった長澤さんが厳しい顔で中央に写っている。襷は『大日本国防婦人会』と読み取れて、銃後の守りをと防空頭巾に竹槍を持たされたあの頃を思い出した。
 母は班長だった。長澤さんに、『八軒長屋に焼夷弾が二発落ちたぞ。さあー班長、どうする、どうするんだ』と言われたと、当時の事を時折思い出しては、『ほんとにもー、竹槍で戦う前に殺されるよねー』と私たちに言っていた。防火用水が、長屋のところどころに用意されていた。バケツリレーや水にひたして火を消す為の道具棒の先が縄だったり、布だったり、ふさのように沢山つけてあったが、家々の戸口には、棒の方を下にして、立てかけてあった。
 幸い終戦まで、実際には使うことはなかったが、毎日のように訓練があって、そんな事に馴れない婦人部の人たちは、母だけでなく辛い思いをしたことだろう。

 まだ戦争が厳しくない頃の長屋は、冬の酷しきを除くと、穏やかだった。陽当たりの良い川岸に、ねこ柳のふっくらとした綿毛の新芽が顔を出す頃は、固雪になっていて子どもの足は雪に埋らない。少しばかりの平地を、面白がって走ったりした。たまには雪の下が融けていて、腰まで雪に埋ると『キャーキャー』言ってみんなで両手を取って、引っ張り上げてくれた。
 家の前の土が乾かないうちから、明るい陽光が嬉しくて、石けりや、男の子は手にヒビを切らせながら、パッチに興じる。パッチの絵柄は武者姿、歴史上の武将の名が多かったが、戦時中は軍人さんの絵に変っていた。服の前を開いてばふりを掛けたりして。弟たちは上手かった。
 家々から『鰊』の焼ける匂いがする頃になると、ああ、やっと春が来た、と思うのだった。その頃は鰊も沢山とれて、箱で買っていた。半分は背割りにして干して開き鰊に、残りはみがき鰊にする。エラと腹わたを抜いた鰊は、十匹程をまとめて物干竿などに一日二日掛けておく。生乾きの時に尾の方から背骨にそってさくのだが、面白くて大好きな手伝いだった。
 みがき鰊は、お正月の昆布巻になる。数の子は、一晩塩水に漬けて乾燥させる。暮には水でもどして、お正月に頂いた。遊びながら乾燥中の数の子をつまみ食いして、母に叱られたりした。みがき鰊も乾燥してくると、骨のついていない下の方を手でちぎって、子どもたちはおやつ代わりに食べたりした。骨つきの方だけが残る。白子は焼いてから煮つけると、おいしい。今でも好きである。

 金魚屋さんが『キンギョーヤ、キンギョ』と張りのある声でやって来る。半纏に股引姿で、重たい金魚鉢や水の入った蓋付の大きな桶には、幾種類かの金魚が入っている。私は海ほうづきが好き。
 金魚屋さんが来る頃になると、短い夏がやって来る。何せ六月頃は、四方の山が中腹くらいまで霧と言うより、通常みんなは『ガス』と言ったが、じっとりと肌にまつわる重たい感じの日々が続く。太陽の顔を見たいと思うのだった。
 そんな後の、カラーっとした晴天の日が続くと母たちは忙しくなる。布団や丹前の手入を始める。普段着物を着ていたから、洗い張りをする。いたんだ所を繕う。労働者の暮らしは、余裕がなくて新しい物は買えない。母は繕物が上手だった。
 布団糊をつけて張り板でトントンと小さくたたいて、皺をのばしながら張り板に巾をととのえながら張っていく。その立て掛けてある張り板の下をくぐつて遊んでは、母に叱られた。

 夏は、なんと言っても川遊びだ。学校から帰ると、ランドセルを投げ出して手拭一本と小さなバケツを持って川へと走る。学校の帰り際に、友だちとはすでに約束ずみなのである。
 金竜町の川には大きな岩場もあって、まるで腰掛けのような岩や溝がついた岩など、その溝にたまっている水が暑くなっていて、川遊びで冷えるとそこで温まったりした。ザリガニやドジョーが面白い程とれた。下手な犬かきは流れのゆるやかな浅いところで、それでもたまには嫌と言う程水を飲んだ。
 遠軽方面に行く橋の下は一番深いところで、『カッパがいるので泳いではダメ』と言われていたが、元気な男の子は橋の上から飛び込んで、自慢げ。私の二番目の弟も泳いで見せて得意顔。
 他に、旭町と金竜町の境目くらいの所に『あべさんの川』とみんなが呼んだ遊び場があった。川の流れが少し急になっていて、いくらかカーブした流れは、急な深みをつくり濃い緑色をしていた。流れは渦を巻いているようで、小さな子どもたちは、そこで泳いではいけないと言われていたが、その淵のような所をさけると水が豊かでみんなが泳ぎに行った。

 ある暑い日、ここで子どもが溺れた。大人も子どもたちも、あべさんの川へ走った。私が見たその光景に思わず息をのんた。川原に寝かされた男の子と女の子に懸命に蘇生術を施す大勢の人がいた。名前を呼ぶ親たちがいた。藁火を燃している。その煙に当てると蘇生するのだとか。息を吹き返さない子どもたちに、すっかり陽が落ちて、夕暮れ時になっても藁火の煙が悲しく立ち昇っていく。
 子どもを亡くした親の悲しみはみんな同じ。亡くなった女の子は、一人っ子。確か支柱夫だったこの子のお父さん。女性にしては大柄で元気印のようなお母さんが、暫く肩を落して元気がなかったのを覚えている。その後、あべさんの川へは行かなくなった。

 鉱山でみんなが楽しみにしているのが夏のお祭りである。このお祭りはお盆と重なる日程なので、お寺参りと神社の参拝とを一緒にする。神社の大きな幟がはためいて、灯籠に灯が入り、家々の軒先には細く削った竹にピンク色の紙の花がついた飾りをつける。神社の参道から、鳥居、神社を中心にした道路の両側にも、提灯が並ぶ。
 みんなが一番に楽しみにしている盆踊りは、十三日から始まる。遠く近く風に乗って、太鼓の音が聞えて来ると、もう駄目、体中の血が騒いだ。浴衣姿に豆しぼりの手拭を肩に、いそいそと出掛ける。初日に下駄の鼻緒で豆を作ったりしても、やっぱり次の日も通うのだった。
 盆踊りの会場は、小学校のグランド。櫓が組まれ、赤白の幕が張られると心がはずんた。踊りの輪は鉱山の繁栄と共に大きくなって、二重、三重にもなった。大人たちは、若者の中から幾組かのカップルが、この盆踊りで生れる、と言った。

 二十日のコンクール付きの仮装盆踊りが終ると、鉱山の秋が足早にやって来る。トーキビや南瓜やジャガイモが食卓に乗って、油の乗った秋刀魚がおいしい。母たちは、冬用の石炭ストーブの焚き付けを作ったり、短い秋の陽に布団を干したりする。山ブドウやコクワが熟してくる。ブドウは食べ過ぎると舌が切れて痛かった。だが、沢山とれた。山ブドウは、大きめの瓶につめてブドウ酒にした。コクワは食べ過ぎると、お尻が痒くなる。柿などは物の流通がよくなかったから、食べられなかった。
 ある時、その柿が手に入った。五人家族のわが家では嬉しいことに五個手に入って、父は何時ものように、子どもたちにジャンケンで勝った人から順々にと言った。
 好きなのを手にみんな食べはじめた。少したって、一番下の弟が『僕、柿は嫌いだから、いらない』と言う。私たちは、おいしく頂いていたので、みんなで顔を見合せた。母はどーれ、と弟の柿を手に『ひょっとして、この子の柿シブイのではないかい?』と言って味を見た。母の見込は当り、可哀相なのにみんなで笑ってしまった。弟は泣き出した。
 この弟は、いつも運が悪かった。お正月が近づくと、家々が好きな日にお餅をつく。そして、餡をくるんで五個とか七個とか奇数の餅をお盆にのせて届けてくれる。わが家からもお返しをする。そんなある年、頂いた餡餅を家族で嬉しく頂いていた。少して弟が『僕の餅、餡がない』と言いだした。みんながそのうち出てくるよ、と言ったが暫くして弟が泣き始めた。最後まで餡が出てこなかったから。
 その頃わが家でも、餡餅と大きさが同じくらいのお供えを作り、上の部分は間違わないように別のところに置いたりした。きっとお隣りさんは、お供餅の上のものを届けたのだろう、ということになった。三人の弟の中で、小さな時からいつも損をするというか、運の悪い弟。

 その弟が中学生になった頃、わが家で鶏を飼った。
鶏の係は弟の役目でヒヨコが五、六羽かえって、とても可愛がっていた。ある朝、食事になっても鶏小屋から帰って来ない。上の弟が見に行くと、死んだヒヨコを二、三羽かかえて泣いていた。母が急いで見に行った。ヒヨコの死因は、前の日に母が沢庵漬をした時、塩を混ぜた米糠が少し残っていて、それを知らない弟は、鶏の餌にまぜてあたえたことが原因だった。夜半にヒヨコは、喉を嗄して亡くなった。母は泣いている弟と亡くなったヒヨコに『ゴメンネ、ゴメンネ』と幾度もあやまっていた。この日の朝食はみんなが黙って食べた。赤い目をして、弟は学校へ行った。

 十月に入ると、父も手伝って大根洗いをする。切り漬、鰊漬、沢庵漬と、家族が多くなって、子どもの成長と共に大根の本数も増えて行った。母の漬ける漬物は、おいしかった。他家の漬物を褒めるものではない、などと言ったが、褒められて嬉しくないことはないよね、とも言った。
 家々の干し大根を見て 『お宅の大根は性がいいねー。沢庵に丁度いい太さだね』とか『今年の家の大根は董立ちが多くて…』とか話題になる。何せ長い長い冬の大事な食物だったのだから。

 十月の末には雪が来る。静かに降る雪は平気だが、風が付いて斜めに降ると、風の吹きようで吹きだまりが出来る。
 低学年の頃、電柱の半分程の積雪になり、家の前も雪の捨て場がなく、窓から出入りしたことがある。玄関も仕方なく階段にするのだが、苦労だった。屋根の雪おろしをしないでいると、玄関の戸が重みできしんで、開かなくなるのだ。木造の長屋は柱も狂ってきて押し入れの戸も、上か下かに隙間が出来た。
 気温もマイナス二桁になる。爪革に滑り止めの付いた下駄が『キユウ、キユウ』と鳴る日は、寒さの厳しい日で、鼻の穴までぺターと付いてしまう。睫毛もおじいさんのように白くなる。
 除雪機などなかったので、大雪が降ると仕事を休んで、道つけをした。家が雪の重みで壊れないように、スコップを持って屋根に上る。裏側の屋根は、すっかり下と続いていて、子どもたちは屋根のスロープをすべって楽しんだりした。
 どんなに雪が降っても、寒くても、子どもたちは元気。防寒服のない時代でも、母の手編みの手袋が氷って、ガチガチになるまで外で遊んだ。家に入ってストーブで温まると、ぬれた手や足は痛痒くて泣きたくなる。大吹雪の日など、窓の隙間から寝ている布団の上に雪が吹き込んでくる。寝ている布団の衿元が氷ってしまったりした。今では、昔話である。
トタン屋根に下見板の家を見つけると、今でも限りなく懐かしい。

 つつましい鉱山の暮らしだが教育は熱心だった。
先に父が仲人をしたお風呂屋の息子さん宅では、長女が東京の有名大学に現役で入学した。長男は幾つものコンピューターのソフトをつくったと聞いた。
残念なことに早く亡くなったが。次男は、鉱山の中学から紋別の北高を終えて、現役最年少で札医大に合格し話題になった。その子どもたちのお父さんを私は兄さんと呼んでいた。周りの人から『医大はお金がかかって大変でしょう』と言われてねと。公立だから、お金はそんなにかからないのに、と嬉しそうに笑った。私まで嬉しかった。兄さんはその頃、職員に登用されて係員になっていた。父とお酒を飲んでいた小父さんは食道癌で亡くなり、小母さんもすでに亡くなっていたから、孫たちの立派な成長を見せてあげられないのが残念だった。
 あれからもう三十五、六年にもなるのに、金竜町というと、姉さんと呼んだお風呂屋さんのお嫁さんの姿が忘れられない。
※金竜町の商店街をあまり書けなかった。
今も仲良くしている同級生で肉屋の静ちゃんは『俊ちゃん、十銭店覚えている?』、『覚えているよ』、『色々な物があって見ているだけでも楽しかったね』、『金魚屋さんのこと書いたよ』と言うと、『金魚屋さんねー、いつも私の家に泊っていたのよ』と静ちゃん。二人とも幼い日に戻った。
他にも記憶力が抜群の敬ちゃんは色々な事を知っていて『あれもこれも書いてよ』と言ってくれる。
〆切りが迫っていて、このたびは要望に答えられなかった。

(3) 鉱山の学校と戦争

 昭和十二年の春、通学にはすっかり遠くなった金竜町から、小学校へ入学した。
 余裕のない暮らしとは言っても、父母にとってはやっぱり特別のこと。新しいセーラー服にランドセル、それに後々も大事にした羅紗の帽子。帽子は紺色でツバがあり、廻りに小さな花柄のリボンがついていた。とても嬉しくて上靴袋を振り回して元気よく歩いて行ったのを覚えている。

 小学校は鉱山の中心部にあり、道路からは山側に建っていた。道路にそってグランドがあって、よく遊んだ鉄棒も、入学時の生徒から高学年の生徒までが利用出来るように、低い鉄棒から順々と高くなっていた。
 グランドには、全校生徒の集合用に先生が上る台があって、外での体育の時間なども大抵先生はその台の上で笛を吹いて生徒に『やすめ、きをつけ』 の号令をかけ、それから準備体操をした。
 このグランドで一年に一度、級の集合写真を撮影した。写真の背景には、大きなポプラの木が写っている。ポプラの木は年を重ねると幹に瘤が出来てゴツゴツしていたが、葉ッパの型が好きでよく拾って遊んだ。秋には黄色くなってきれいだった。学校の周りに沢山あったポプラの木、冬は吹雪から私たちを守ってくれた。

 校舎は、屋内体育館を挟んで右と左に分れていた。
右は体育館から階段を登って鉤の手に校舎があり、中央附近に玄関、入ってすぐが職員室だったように思う。
 四年生の時にはこの並びの教室だった。鉤の手を更に直角に曲って建っていた教室は三年生。突き当りにも生徒用の玄関があって、私たちはその玄関を利用した。この校舎はグランドからは高台になっていた。
 入口の側には、二宮金次郎の銅像が立つ。ブランコや少しばかりの遊具もあった。教室からは隣りの恩栄館が見える。恩栄館の二階の非常口を見ながら高くて恐いなーと。恩栄館の左側の壁だった。体育館から階段を登り切った所にあったトイレは、便槽が深くて用をたす時とても恐かった。成長してからも、時々夢の中に出てくる。意気地なしの恐がり屋だったから。体育館から左の教室が一、二年生。その後は、五、六年生の教室。

 生徒が、鉱山の発展と共に増えるので校舎も延していったのだろう。左の奥の校舎は、二階建てになっていた。二階の教室は五年生の時使用したが、放課後居残りなどしていると、シーンと静かで気持ちが悪くなって急いで帰った記憶がある。どんなに急いでも、廊下を走ってはいけない校則は守った。
 掃除当番もきちんと班が出来ていて、真面目に働いた。さぼり上手な男子は、どんなに勉強が出来ても人気がなかった。トイレなど特別な所は、高学年が受け持って、一、二年生はしなかったように思う。
 授業が終ると、机の上に椅子を乗せて後に下げる。
前の半分の掃除が終ると、机を前に出して後の掃除をする。要領のいい子は黒板ふき一つ持って、細い竹を手に窓からゆっくり叩いていた。廊下も教室も、床は油を引いてあって乾いた雑巾で力を入れて拭く。机の上は水拭きだったから、冬はストーブの側にバケツに水を入れて置いたりした。水が室温になる。

 冬と言えば、ストーブの横に金網の棚が二、三段ついたお弁当を温める容器があった。この容器の近くに寄ると、おかずが温まって色々な匂いがする。特に沢庵の匂いは強烈。
 冬の話で思い出す事に、グランドの雪踏がある。
沢山雪が降るとみんな足ごしらえをしてグランドに出る。肩を組んで並んで雪を踏んだ。ある年の冬は、踏んでかたまった雪をスコップで雪のブロックのように切り取って、校庭の東と西に二基のお城を造った。ブロックを造る人、運ぶ人、雪のブロックを積む人、お城は何日かかけて出来上がった。高さが五、六メートルはあっただろうか?お城の上に旗を立て、全校生徒で旗取り合戦をする。お城を登って来る人を城の上で防ぐのである。守るも攻めるも楽しく、転んでも雪の上なので怪我もしないし寒くもなかった。

 少し温かくなってきた三月の末頃だったろうか、一度大雪が降った。気温が高くて降る雪は重たい。先生と生徒で体育館の屋根の雪おろしをした。屋根に登ると広い大きな屋根が特別大きく見えた。雪に埋まった足を抜くとその雪の穴は、きれいな水色だった。先生の指揮の元でみんなが雪の下敷にならないように、屋根の庇から四、五メートルの位置に並んで、スコップで雪を掘る。それから先生の号令で『セーノ』でみんなで押すと、それはそれは見事に流れて落ち行く。歓声が上る。そしてまた上の方へ登っていって同じように繰り返す。あまり疲れずすごく面白い雪おろしだった。
 この経験は、今でもわが家の屋根で生きている。
暖気の時に庇の氷を先に落してから、適当な位置から押すと、面白いようにゆったりと落ちていく。あまり力を要しない。雪の質を見るのは、雪道での車の運転でも大いに役に立つ。
 東京育ちの夫には、『今朝の雪は滑るから、気をつけて運転してね』とか『気温が低いから今日は少し走りやすいかな』などとつい言ってしまう。子どもの頃から、馴れ親しんだ雪はどんなに降っても苦にならない。その頃の子どもたちは、みんな親と一緒に働いていた。体育館の雪おろしだって平気だったのだ。
 六十年も前のことなのに、鮮明に覚えているのはあの雪の藍があまりにも美しかったことと、まるで小さな島のような、色々の形の雪が落ちていく様が壮観だったからかもしれない。

 遠足や運動会など、定期的行事はあまり印象に残っていないが、弟たちは三人揃って走るのが速い。
おかげでノートは買わなくても賞品のでまにあった。リレーも選手だった。会社主催の運動会は、住んでいる町の対抗リレーがあって応援も盛り上がるのだが、わが家が引越しする町が必ず優勝した。特に二番目の弟が速くて、半周くらい間を離してしまう程。母のべ夕足を引継いで土踏まずがない、と父がよくからかった上の弟も、いつも速くて母は父の前で『ねえ。馬鹿にしないでねー私に似てても速いでしょう』と得意がった。
 父は近所の人や職場などで『豚が競走馬を生んだなー親父』とからかわれ、『俺だって子どもの頃は速かったんだっ‥』と言いながら、満更でもない顔をしたとか。
 大人の運動会は賞品も良く、子どもたちには画用紙だとか鉛筆など沢山もらった。大人たちは趣向を凝らした種目があって、全山総出の運動会はみんなで楽しんで、終った翌日など運動会の話題でにぎわった。重量上げで何時も強かった上田さんは、チャンピオンの愛称で呼ばれ、それは今でも変らない。赤パンツの吉田さんも有名だった。
 愛称が出たついでに、鉱山ではみんなが呼んでいた『盲腸さん』。本名は、佐々木さんだが『盲腸佐々木さん』とも呼ばれた。その頃珍しかった盲腸手術を鉱山病院でした第一号だったのだとか。その他、『相撲取り加藤さん』『大きい菊地さん』とか『ヨロケの○○さん』などと親しみを込めて呼んでいた。
 鉱山では殆どの人が、顔も名前も知っていた。

 さて一年生になった私にもどろう。
 校長先生は、白髪に鼻髭をたくわえた今井先生。
担任は着物に袴姿の沢田キヨ先生。先生は、鉱山では只一つの寺院、鴻恩寺の若坊さんの奥さん。
一年生の思い出と言うと、学芸会に一寸法師を踊ったこと。先生が着る物を全部用意してて下さった。私の体に合うように手を加えて、特にズボンは上級生の女の子のブルマーを借りたとおっしゃって『コロコロ』と笑った。恩栄館の舞台は、広くて大きかった。学芸会が済んだ後暫くは名前を呼ばれずに、みんなに『一寸法師』と呼ばれて恥ずかしかった。一年生の頃のことはあまり記憶がない。

 沢田先生は、一年生だけだったと思うのだが。その後、先生とは長い年月を疎遠に過してしまっていたが、鉱山の閉山後、札幌に落ちつかれていた。藻岩山の麓に鴻恩寺さんを移され、特に、引き上げにあたって、長い間供養を続けて下さっていた無縁仏も全部一緒に。その事を知った時、言葉にならない程、感動した。
 私がお目にかかった頃は、まだご住職もお元気で、鉱山から札幌へ移られた方々のご先祖と共に、ご供養をして下さっていた。ご住職が亡くなられた後、檀家さんの月参りは先生のお仕事になり、九十二歳の平成十二年まで続けられた。『先生、札幌は広いから大変でしょう』と私が伺うと『地下鉄やバスの乗りつぎも大丈夫よ』と、さり気なくおっしゃった。開鉱から閉山まで、長い間、お世話になりました。鉱山の歴史と共に歩まれて、別離の悲しみを支え、逝く人に黄泉の国へのお導きをしていただき本当に感謝です。先生は、檀家さんのお参りを、後を継いでお坊さんになられた息子さんに譲られたと伺っている。
 私が先生にお目にかかった頃は、関わっていた『ユニセフ』(国連児童基金)の事をご存知で『新聞で知ったのよ。私の教え子が、世界の子どもたちの為に頑張ってくれているなんて本当に嬉しい。いい事しているわね』と言われて、なんだか一年生の頃に戻ったようで、胸が熱くなった。

 二、三年生の担任は、有村房子先生。先生は紺の丈が短い上着に、白いブラウスの衿がのぞいて、スカートは丈の長いプリーツだった。八年程前、五十七、八年振りに顔を合せた同期会で、男子の一人が先生が大好きで 『俺先生のスカートまくったんだ』と言い出して、みんながビックリした。『先生なー顔赤くしてよー叱られたさ』と言った。『馬鹿だねー』と、女子は笑った。先生は、のちに古郷鹿児島へお嫁に行くことになった。あこがれの先生だったので、最後の授業日はみんなが泣いた。声を出して泣いた。隣り組の男の先生がやって来て、『こらー。誰かが亡くなったわけでもないだろう。先生が困っているじゃないか泣くのは終りー』。でも、別れはやっぱり淋しかった。

 四年生の担任は、小笠原先生。先生は何時も椅麓にお化粧をしていた。睦毛が長くて黒くてキリリとした目をしていた。一学期の半ば頃から休みが続いて、札幌の自宅へ帰られることになった。後に結核と知る。
 先生との最後の日、級のみんなは静かだった。私はその後、どうして先生と散歩に行ったのかがさだかでないが、学校を出て後に中学校が建った第二の沈殿池までゆっくり歩いた。モベツ川にかかった橋を渡って、少し登り坂になっていた細い道を二、三人の女の子と先生を真中にして歩いた。どんな話をしたかは覚えていないが、その道の左側の土手に、まだ細くて弱々しそうなアカシアの木があり、重そうに白い花が咲いていた。周辺に甘い香りを漂わせていた。その日が、六月三十日であったことだけは忘れずに覚えている。私の中にアカシアは、六月末になると咲くと。小笠原先生との悲しいお別れが重なっている。
 札幌へ帰られた先生は、短い療養生活の後亡くなられたことを知った。この年の暮、十二月八日には大東亜戦争が始ったので、充分な治療も出来なかったのだと思う。
 小笠原先生の後任が決らなくて、かわるがわるに別の級の先生が見えて、授業も落ちつかなかった。
丁度、算数が割算の頃でわからなくて迷子になりそうだった。父母が夜『馬鹿だねーこの子は』と言いながら教えてくれた。
一番長い時間教えて下さったのは、渡辺教頭先生。教頭先生は、最初の奥さんをお産の後亡くされていた。母はよく『月が満ちれば生れてくるのよ。予定日を過ぎたからと、神経質にならないの。お母さんも、赤ちゃんも正常なら心配ないからね』と言っていたが、今と違ってみんな自宅分娩だったから、思わぬ不幸もあったのだろう。
 先生は、悲しい経験をされていたことで、高学年の女子には何時も『お産の後は、くれぐれも無理をしないように…』とおっしゃっていた。特に体を冷さないようにと注意をしたり優しかった。教頭先生は、小柄な体に背広姿で眼鏡を掛けていた。お話がとても面白くて、授業が楽しかった。

 開戦の日は、全校集会で校長先生が、なぜ日本がこの戦争をするのか、などのお話があったのだがよく覚えていない。教室へ戻ってからの教頭先生のお話が、少しだけ頭に残っている。大きな地図を黒板の上の方から下げて、『資源の豊富な南方の国々も、やがて日本のものになる。戦争で私たちの暮らしも大変になると思うが我慢しなければ…』等々。細くて長い竹のむちでそれぞれの国を差し示して、その国の資源など説明してくれた。その時は、のちにどんなに厳しい戦中、戦後の暮らしがやって来るのかなど、十歳の子どもにはわからなかった。

 鉱山の暮らしに変化が見えてきたのは、翌年の春。
仲良しだった級の友だちの転校が始まった。毎日のように、家族を乗せたバスが鉱山を去る。仲良しの友だちと別れを惜しむ時間もなくあわただしかった。
三組あった学年が二組になった。
 鴻之舞は、金山だから平和な時でなければ仕事が出来ない。戦時下では金の需要が少ないのだ。
 親しかった友だちは、鉱山と同じ住友系列の赤平砿山へ行ってしまった。転勤のお父さんたちは、会社の命令通りに、道内や道外の新しい勤務先へ家族と共に移っていった。父は幸い移動はなかったが、社宅のあちらこちらに空き家が出来て淋しくなる。
鉱山全体が、ざわざわと落ちつかない。鉱山は、鉱石を掘らなくなっても、保鉱の為の最小の従業員を残した。

 事務所の前から出征軍人を見送る光景は珍しくなくなった。軍籍にある人は、軍人さんの服装で、母たち婦人会は白い割烹着に襷をかけて、手に手に日の丸の小旗を振って、『勝って来るぞと 勇ましく…』と軍歌で送り出した。本当に沢山の軍歌があって『暁に祈る』、『加藤隼戦闘隊』、『軍艦行進曲』は、一時期、パチンコ屋さんのお店からメロディーをよく聞いたけれど、パチンコをしている若い人たちは、歌詞などきっと知らないだろう。その他に『異国の丘』、『月月火水木金金』などなど、子どもたちは替歌なども作って唄った。
 私の一番好きだった軍歌は『愛馬進軍歌』。

一番 くにを出てから幾月ぞ 共に死ぬ気でこの馬と 攻めて進んだ山や河 とった手綱に血が通う。

二番が、昨日おとしたトーチカで 今日は仮寝のたかいびき 馬よぐっすりねむれたか 明日の戦は手ごわいぞ。

三番、弾丸の雨降る濁流を おまえたよりに乗り切って 任務はたしたあのときは 泣いて秣を食わしたぞ。

四番、慰問袋のお守りを かけて戦うこの栗毛ちりにまみれたひげずらに なんでなつくか顔よせて。

 この歌と『暁に祈る』は、今でも歌うと泣けてくる。

 この時期は母にとって最も忙しい毎日だった。母は寅年生れである。戦地に行く人に、親兄弟や、そして妻たちは『武運長久』を願って千人針を贈った。
近所を廻ったり人の集っている所を選んで、一人一針、女たちは心を込め『どうぞ無事に帰って来てほしい』と願っていたのだと思う。寅年生れの人は『虎は千里の道を行って戻る』との言い伝えを信じ、その人の年の数だけ縫い玉を作ったのである。

 戦争が段々厳しくなってきた。兵隊検査は甲乙丙とランク付けがあったが、体格も悪く戦争に耐えられないような男の人にまで召集令状が来たという。
この戦、負けると思ったという。それも入隊するのに時間的余裕がない人もいて、急ぐ時には寅年生れの女の人は喜ばれた。翌朝早くだったり、夜暗くなってからも母をたずねて見えた。母は快く迎え入れて、一針一針糸をむすんでいた。千人針の絵柄は色々で、一番多かったのが虎の絵だったように思う。母が自分の数だけ済ますと、虎の絵の一ヶ所がまとまって埋る。

 日増しに父が無口になる。人の目には立派な体格で頑健に見えた父に召集令状は来なかったから。お国の為に役に立てないことがどんなに辛いことだっ
たか。戦争にも行けない男は最低に見られる時代だった。
 『親父よーその体では甲種合格だっただろうに』と言われたとか。母は小さな声で『可哀想にね』と私につぶやく。
 父は左の耳が聞えず、左手も不自由だった。鉱山では、身体検査をしてから採用される。採用の時どのようにして検査を通ったのか。いきさつを聞けたのはずーっと後で、七十歳に近い頃だった。周りの人に、その不自由さをさとられないように精いっぱいの努力をしていたのだと思うと、何時も涙が出てくる。

 当時、身障者に社会は甘くなかったし、会社に判ると首になるかも知れなかった。何事にも負けん気で頑固で厳しいが、情の深い父だった。古郷での青年時代は、土地の相撲大会で横綱だったとか。大好きなお酒が入るとよく古郷の話をした。
 横道にそれてしまった。保鉱だけの鉱山になったが、夫や息子が戦争に行ってしまった家族は、社宅に住んでいられたし、鉱山は留守家族を大事にしてくれていた。

 五年生は、担任が大垣先生、黒の詰襟を着ていた。
校舎は二階の階段を上って右側で、教室は二つだったと思う。突き当りに非常口があった。その頃には元町のグランドが、小さな汽車の発着所になっていて汽関庫や石炭置場に変っていた。山裾を削って線路が敷かれていて、紋別までの輸送にはこの汽車が力を発揮していた。神社の縦長屋は、この汽車を通す為に解体された。
 五年生の教室は山側に建っていた。線路と山が近くに見え、山のきわに学校の畑もあった。授業で南瓜やジャガイモを作っていた。少し小高い平らな所には、青年学校も見えた。鉱山の労働者は、義務教育を終えた人しか採用しなかった。成長してわかったことに、それ以上の教育を受けた人を採用して、労働組合を作られると困る、というのが理由だったとか。しかし、鉱山で義務教育を終えて採用した人たちには、この青年学校で学ぶことが出来た。また労働者の中からも、優秀な人は職員として登用もした。私の父も、推薦すると言ってくれた人があったが、辞退した、と聞いた。
 五年生担任の大垣先生は、お話をする時口角が白くなった。眼鏡の奥で笑っているような優しい目をしていた。あまり叱られた記憶がない。モダンで日本人離れの顔立ちの奥さんと、可愛いお嬢さんたちがいた。
 学年の終り頃、先生にも赤紙が来て戦争に行ってしまった。そして先生は、アツツ島玉砕で亡くなったと後でわかった。みんなでご冥福を祈って黙祷した。みんなの心に大きな不安感が広がる。

 五年生の時には、治子ちゃんというとてもお話の上手な女の子がいた。童話やお化けのお話を沢山聞かせてくれた。みんなで『今日はどんなお話?』と楽しみにした。童話を沢山知っていたから。彼女は、通称『役宅の子』。
 鉱山の職員や幹部の方々は、住吉町に住んでいた。部屋数が四つはあって縁側もついていた。台所には水道も入っていた。みんなが奥さん、奥さんと呼んで、長屋のオカミさんとはずいぶん違った。
 治子ちゃんは、何時も素敵な洋服を着ていた。『役宅の子』は級に何人かはいて、労働者の子どもとは区別が付いた。
 私の父母は何時も、職業に貴賎はない。世の中は様々な職業の人がいて支え合って暮らしているのだ、と言っていた。『どんな人間でも、その人だから出来るということがあるものだ。この世に生れてきて、必要のない人間なんか一人もいないんだから』とも言っていた。水前寺清子さんの持ち歌『襤褸は着てても心は錦』を初めて聞いた時には、いい歌だなーと大いに共鳴できた。

 まだ家庭にラジオなどもなくて情報が入らないとは言っても、戦争の厳しさが少しずつ判るようになっていた。家庭の中のアルミの弁当箱さえが供出しなければならなくなっていたから。落ちつかない日々を送りながらも、六年生になる。
 担任は、橋本先生。先生は誠に人間味豊かな先生だった。絵が上手で特に図画の時間は、教壇に椅子を上げて生徒の一人を座らせて、みんなに描かせたり、色づかいがとても大胆で、チョコマカ措いていると、手を添えて大きくドンと直してくれた。
 学習の時、なんの授業だったか忘れたが、先生の『そしてやがて死ぬるのである』という言いまわしが面白いと、男子がよく『死ぬるのである』を連発して、女の子はクスクスと笑った。
 先生は、学校の規則を破ったり、暴力をふるったり、特別悪さをした時は、叱るのではなく諭した。
『先生は、君たちが人間として恥ずべき事は何なのかをわかっていると思っていた。信じていた。先生は情けない』と言って涙目になる。私たちも先生と一緒に泣いた。先生は長々といつまでもこだわらなかった。まもなく何時もの先生になってユーモアたっぷりの楽しい授業をしてくれた。後に四、五年生から先生に教わっていた男子は、先生のお宅へ遊びに行って麻雀や囲碁を教えてもらったとか。家庭でもほがらかで、どうして楽しませてやろうかと心配りをしてくれたのだと知った。
 家庭には、両親や兄妹、色白の美しい奥さんに可愛いお嬢さんもいた。先生を悲しませないように、先生に信頼される人間になろうと、ずーっと思って成長した。
 両親の他に先生は、最も信頼出来る人でした。

 五年生だったか六年生だったか定かではないが、特記したい事がある。その頃紋別では鰊や鱈がとれていた。働き手の大人は戦争に征ってしまい困っていたのだろう。鉱山の小学生まで勤労奉仕の話が来て、私たちは、家を離れて学友と一緒に汽車にゆられて紋別へ行った。海を初めて見る子もいて、それはそれは大騒ぎ。
 前の日は不安と期待で眠れなかった。当時の汽車は、時々調子が悪くなって途中で止ったりした。石炭が燃料だったから、大きな煤の塊が客車の中まで入ってくる。客車で足りない時には無蓋車に人を乗せることもあったので、みんなの顔は煤で黒くなり、お互いの顔を見て笑ったりした。
 一日目は、網にかかっている鰊をはずす仕事だった。鰊はエラのところが細い網の糸にからまっている。馴れない仕事に海から吹いてくる風は冷たくて鼻水をすすりながらの仕事。綱からはずす時、ウロコがはねて顔に飛んで来る。顔はウロコでがばがばになる。生れた時から山の中で育った私には、広々とした大きな海を見た感動と共に忘れられない。
 夜は、出塚水産の宿舎に泊った。みんなで雑魚寝。
何時までも寝付かれずに、一人がシクシク泣き出すと、みんなに伝染した。翌日は竹輪の工場。火のおこったレールの上を、金棒に竹輪の形になった魚のすり身が、コロコロ転がりながら焼けてくる。最後のところに来たものを、手袋をつけた係の人が上手に金棒からはずす。見ていると面白くてやさしそうに見えるが、金棒からはずす時、形がくずれてしまう。それは売り物にならないので、やっぱり子どもにはむずかしかった。二泊三日の勤労奉仕は、五、六年生の時の大きな経験である。

 戦争は激化していたが、無事に六年生を終えた。
記念写真は、上はセーラー服だが下はモンペだったりして、その頃のことが思い出される。振り返ってみると、私が小学校へ入学の頃は、着物に下駄の子もいたし、二、三年生頃の級の写真は、上は服でも下駄の子が結構写っている。
 それに、今でも忘れない出来事に、弟や妹を連れて学校に来る子がいた。先生も別に困った顔もせず、みんなも一緒に面倒を見ていた。連れて来ている子の更に下に、お母さんがお産をして寝ていたりしたのだ。貧乏人の子沢山。その後は『生めよ増やせよ』の時代である。

 一、二年生の時、今井校長先生について忘れられない事がある。
今井校長先生は、当時の子どもたちの名前を殆どご存知だった。先生は授業中、足音も立てずに静かに廻って来る。先生が見えたことを知らずにいると、担任の女の先生の顔が赤くなって変だなーと思うと、後に校長先生が見えているのだった。
 校長先生は、後から子どもの肩をトントンと指で叩いてその子の名前を確かめて、『何組の誰々は兄さんか?』などと聞くのだった。静かに小さな声で腰をかがめて。歩く時は、両手を後で軽くにぎっていた。

 四年生の時には、角野校長先生。その頃は綴り方を書く事を学校中で進めていた。物をよく観察したり、物事を考え、理解して自分の言葉で表現する。本を読んだり書いたりする事は好きだった。だが、好きと上手は別である。母は私の知らない言葉や文字をよく覚えていた。私がわからなくて聞く字は、即、答えてくれた。文章も上手で、よく古郷の能登に住む母へ手紙を書いていた。でも字は本当に下手。九十四歳で亡くなったが、亡くなってから母に似ているところがわかってきた。生きている時は、同性であることもあって欠点ばかりが目に付いた。今はもう少し優しくしてあげればよかったと反省している。

 橋本先生のことを、少し書いておきたい。先生は一九三三年、鳥取師範を卒業されてすぐ渡道された。
鴻之舞に来られる前の学校を存じ上げないが、鉱山に落ちついてからご両親も呼ばれた。一九五六年には札幌の小学校に転勤して、琴似に自宅をかまえた。

 鉱山の小学校は、教育レベルが高いと言われた。
鉱山の職員、特に幹部の方々は、東京や大阪の支社や本社などへ転勤の時、鉱山の学校で学んでいる子弟が行く先の学校で苦労がないように、鉱山が教育に力を入れたのだという。
 先生方は、師範学校卒業の優秀な方ばかりを集め、職員住宅と同じ住いを用意し、家賃は無料、冬の燃料も支給した。今で言う僻地手当のようなものを鉱山が支給していたと聞いた。橋本先生が『大勢の家族を養い、弟や妹に家庭を持たせたり、自宅を建てられたのも鉱山のお陰だった』と感謝していた。後に厚別の青葉町にアトリエの付いた大きなお宅を建てれられて近所の方々に油絵を教えていた。一九六三年、札幌に落ちついた私は、どうしてもお目にかかりたくて山鼻小学校を訪ねた。先生は大きな声で『やあー』と手を広げて喜んでくれた。定年になるのを楽しみにされ、『自由な時間が出来たら思う存分絵を描きたい』と、まるで青年のように活き活き話された。私はその頃存じ上げなかったが、一九五六年『新北海道美術協会』を新進気鋭のお仲間と結成され、事務局を引受けていた。
 絵は主に山を描いていた。男性的な北海道の絵を幾つも拝見している。四季で変る山はそれぞれの顔をしていて、素晴しい作品である。一九六八年には、白日会で支部大臣奨励賞を受賞。一九七〇年白日会会員になられる。一九七六年、日展入選。一九八〇年にも日展入選。先生からの個展の案内は、嬉しくて必ず伺った。先生はお幸せなことに、お嬢さんの一人が絵画をこころざし、後半は父娘展の案内を幾度か頂いた。
一九九五年五月に、突然倒れられて意識の戻らないまま、最愛の奥さんやお子さんに見守られて亡くなられた。実は、先生の亡くなられた前年六月、当時ボランティアながら責任ある仕事もあって多忙だった私が、個展でお目にかかる度に『鉱山で僕が教えた子どもたちの級会(同期会も)を一度もしてないのは、俊ちゃんたちだけになった』と言われて一念発起、準備を始めた。

 フルネームで頭にある同級生をメモって、この人にはお姉さんがいた、この人には弟がいた、と調べて四十七人見つかった。電話も、沖縄から三重県、東京方面など三日間かけて消息を聞きまくった。赤平などは、一人見つかると、四、五人の所在が判った。嬉しかった。
 そして一九九四年六月、五十七年ぶりに札幌で同期会を開催した。二十四名が出席。橋本先生は定年後、度々病で倒れられ、大きな手術もされたりして、入退院を繰り返していたが幸い、小康を保たれていて一緒にホテルで一泊して下さった。狭い鉱山暮らしだったので級会とはしないで、同期会にした。『俺たち男子組は広島先生だった』という人もいて、広島先生は滝上で既に亡くなったと知った。
 橋本先生が『三年か四年早かったら再会出来たのになー。先生もきっと喜んだだろうなー』とおっしゃった。残念で胸が痛んだ。消息がようやくわかっても、既に亡くなっている人もいて、あの元気いっぱいの人が、と信じられなくて悲しかった。再会出来た人たちは、本当に運がよく、生きのびてきたのだと心から思える。

 再会はしたけれど、一瞬誰かわからない人もいて、暫く時間が経ってから、幼い日の顔と重なり『やーやーそうかそうか』と肩を抱き合った。何から話していいのかわからない程みんなが興奮状態で、ホテル心づくしの料理も酒も半分以上残った。
 橋本先生のお言葉も時折声がつまって、泣き虫の私は涙が出て来て困るのだった。先生にとって、記憶の中の五、六年生の子どもたちと六十二、三歳になった私たち。なんとも感慨深い一日だったにちがいない。
 将来社会的にも、きっとリーダーになるだろうと思っていた男子は、四十代で亡くなっていたし、私のような者がなんとか世話人になって先生が亡くなられる前に、みんなで再会出来たことを心から嬉しく思った。
 朝食をみんなで一緒に頂いた。名残惜しく、別れがたく、みんなが何枚も何枚もスナップ写真を撮って別れた。恵庭から参加の四人が、厚別の青葉町のご自宅まで先生を送ってくれた。車の中で、眼鏡の下から、あの優しい温かなうるんだ瞳と、笑顔で手を振っていた先生の姿が忘れられない。先生をご自宅へ届けてくれた仲間の一人が今はもうこの世にいないのも悲しいことだ。
 先生が亡くなられた、とお嬢さんから電話を頂いた。『父らしく、静かに逝きました』とおっしゃった。厚別の国道沿いの寺院で執り行なわれた葬儀には、先生の終の住処だった青葉町の方々が沢山見えていた。毎日の散歩で、それぞれの自慢のお庭の主と、言葉を交されていたという。お倒れになった日も、朝、『少し気分が悪い』とお休みになったまま二、三日意識が戻らず、最愛の奥さんや五人のお子さんたちに見送られてのお別れだったという。
 葬儀では、鉱山の小学校でご一緒だった先生方や同窓生も多数見えていて最後のお別れをした。お通夜でのご住職の法話は、先生の生前のお話、お人柄などの後、奇しくも芥川龍之介氏の『蜘味の糸』。神社の縦長屋で、五歳の頃に紙芝居で見せてもらった『蜘味の糸』を、私は最も敬愛する先生のご霊前で再び聞いた。幼い心に、強烈な印象としてきざみこまれている『自分だけがよければいいのではない』ということを改めて教わった。
 出棺の時、謝辞をのべられたご長男が『家族をどんなに愛してくれたか、地元にいない孫たちが夏休みに札幌に来るのを楽しみに、様々な遊びを考えて、喜ばせてくれたことなど具体的にお話になって、家族のみんなが大好きな父でした』と話された。度々の大病に打ち勝って、好きな絵を最後まで措き続けられた。遺作は、手稲山だった。もうひといきで完成でしたのに。私は深い感謝を込めてお別れをした。
 幸いにも、個展の折に買わせて頂いた二枚の絵が、手元にある。一枚は、定年になって早速出掛けられたスペインの絵。もう一枚は先生得意な山の絵。先
生との沢山の思い出と共に、この絵は時々私に元気とやる気を与えてくれる。

 六年生卒業の時、私は精勤賞を頂いた。六年間一日も休まず学校に通えたことは、腺病質で弱々しかった私を養い育ててくれた両親あってのこと、感謝している。記念品は硯と墨。目録を頂いたままである。もう硯も墨も、入手が困難になっていた。
 小学校六年生を終えて、高等科一年に進んだ六月、遂に父にも転勤の発令が下る。行き先はやっぱり山の中で紋別の小向弘道にある『八十士鉱山』。
 八十士鉱山は水銀鉱。当時水銀は戦時下で必要なものだったらしい。何に使われたのか、どんな使われ方をしたのかなど全くわからなかったが、父は先発隊で行ってしまった。鉱山での父の仕事は、警備だとか世話所などに変っていた。
 八十士鉱山では、単身赴任の労働者や独身の人たちと、朝鮮から労働力として日本に連れて来られた人たちがいた。その両方の人々の寮の寮長だった。
 建物の真中が玄関で、寮長室をはさんで左側が日本人、右側が朝鮮人と別れていた。食堂は、一緒だった。特に父は私たちが子どもの頃から、自分だけに一品多くなどということは絶対にしない人だった。母にはどんな物でも『少しずつでも分けて付けること』と言ったと、後々まで母は語っていた。
 長屋暮らしの時、子どもを寝かせてから親がうまい物を食べている、と近所の噂になった家もあったので、小さな時から自分の親は『いいなー』と思っていた。

 そう言えば昔、よそからの頂き物も父が帰って来てから、父の手で開けたことを思い出した。きちんと父の前に座って見ていた。どんなにおいしそうで、よだれが出そうな物でも行儀良く父の帰りを待ったものだ。いたずらが過ぎて母が『父さんに言うよ』は恐ろしくてすぐに『父さんに言わないでー』と謝る。
父は家長として威厳があった。
 また横道にそれてしまったが、八十士鉱山の寮も出来上り、家族も住めるようになって、迎えに来た父に連れられて引越をした。その頃は鉱山の人員も少しずつ減って淋しくなっていたが、引越してみれば同級生が五、六人もいた。八十士鉱山の労働者がどれ程の人数だったのか定かでない。
 引越した当座はまだ水道が出来てなくて、百メートル程先に流れていた川の水を利用した。近道をするため、伊藤さんという農家の前を通らせてもらった。履物も充分でなかったので、裸足に天秤棒を肩に川水を汲んだ。痩せた肩に天秤棒は痛く、バケツの水は家に着く前に半分になった。その内コツを覚えて上手くなった。一番辛かった事は、薮蚊と蚋に刺されたこと。刺されたところは、赤くボコボコに腫れた。家中みんなが痛痺くて辛かった。殺虫剤はなし、薬もない時代のこと。
 食料事情も悪くなっていて、ジャガイモや南瓜やトーキビが主食に。不平など言えない時代『兵隊さんのことを思うと我慢出来るでしょう』と言って親たちは諭した。また、そんな生活が普通だったし、みんなが同じだったから苦にもならなかった。

 転校した学校へは、自宅からは四キロもある細い馬車道を通った。途中に細い沢水の流れている場所があったり蛇が出たり、一人では恐くて歩けなかった。土地の男の子が、蛇の皮をむいて頭の上程の細い木の枝にぶら下げて驚かされたりした。鉱山の子たちは、環境の違いに戸惑うことが多かった。転校した『小向高等小学校』は複式授業。高等一年生、二年生、それぞれが二十人程いた。一年生の授業の時、二年生は自習をしているか、先生に出された課題をやるかなのだが、私など珍しくて二年生の授業に目も耳も向いてしまったりした。
 転校してすぐに、教育勅語の暗唱がある。何日までと決められた課題だった。苦労しながら最初に当てられて、なんとか無事に暗唱出来た時は、ホッとして嬉しかった。

 担任の先生は、鴻之舞鉱山とは縁があって、当時の鉱山郵便局長さんの奥さんが、実姉であるという。
鉱山の学校では、同級生にその局長さんの長男がいたので、転校生たちはホッとして嬉しかった。
 小向地方は殆ど農家で、酪農家もあったがやっぱり人手不足で、学校からの勤労奉仕が求められていた。農家の子どもたちには馴れた仕事でも、鉱山からの転校生にはきつい仕事だった。ジャガイモ掘りや暗渠掘りが主な仕事で、学校から勤労奉仕先に行く家までは何キロもあった。八十士鉱山の子どもたちは、通学に往復八キロだったから、体にこたえた。
 ジャガイモ掘りも、農家の子が三木鍬で掘り起したものを、私たちは体にはばける程の (その時はそのように思った)大きな籠で拾う。イモがいっぱいになると、畑の決められた所へあけに行く。
 あけに行く所が遠くなり、重たくて途中休みながらになると、この土地の子どもたちから『のろのろするな』と叱られた。一籠あけると、あけた数がわかるように、一個のイモを少し離れたところに置いてくる。それを繰り返す。一番辛くなるのが腰だった。

 転校して私に付いたアダ名が『幽霊』。血の気がない青白い顔に、首だけ長くて痩せこけて背だけ高い。
そんな私に、このアダ名はピッタリだと思っておかしかった。
 そんな日々の中、私は発熱しずーっと微熱が取れなくて、心配した両親は見かねて、紋別の横山病院へ連れて行ってくれた。レントゲン検査の結果『肺門淋巴線』と診断が出た。それからは、小向駅から紋別まで一週間に一度通院をした。病院では血管注射で『ザルプロ』と聞いていたが、その注射をすると体中熱くなった。口の中まで注射液が臭った。
 三ケ月程で少し良くなったが、二年生になって再発して三ケ月、学校を休んだ。普通に学校へ行っても勤労奉仕で勉強が出来なかったのに、病気で休んで学力のないまま、二年間の義務教育を終えた。
 その間、先生に召集令状が来て、見送った。空襲警報が出ていて学校へ行けなかった時、兎当番なのに無責任だといって体罰を受けた。そんな時代だった。

 終戦は、高等二年の八月十五日。
六月には二歳の妹を麻疹で亡くした。可愛い盛りだったから両親も私たちも辛かった。おいしい物、甘い物一つない時代に二年間生きて逝ってしまった。両親は、後々『生きていれば何歳になるね』と言っては、当時のことを想い出していた。
 終戦の知らせは、当時ラジオがあった駐在さんが教えてくれた。大きな虚脱感は、大人も子どもも同じ。戦争が負けて終ったことの不安は大きく、この先の暮らしがどうなるのか、先が全く見えなかったのだから。
 その頃父は食糧事情の悪い中、寮生の食糧を求めて奔走していた。沼の上の漁場の渡辺さんという親方には、ずいぶんお世話になった。鮭を馬車で運んでもらったこともあった。
 わが家は『ウニの塩から』を一樽わけて頂いて、ジャガイモの塩ゆでの上に乗せて食べるのが一番の贅沢になった。
 鉱山の労働者不足を補ってくれた朝鮮の方たちは、鉱山直属の労働者ではなく組の形でも入っていた。この方たちは土地の方から牛や豚をわけて頂いて食糧にしていた。その方々からも肉をわけて頂いたり、父が直接豚などは購入して、寮生の食糧にした。
 父の所へ遊びに行っていた弟たちが、たまたま豚の処理をする場面を見てきて母や私に 『いつもは、一発で気絶させるのに、父さん手元が狂って叩き損ねてなー、豚が走りまわって大変だった』と、目を白黒させて報告した。鶏も首を切って放されるのが、どうなるのかは子どもたちは知っていた。父母は必ず『頂きます』の意味を話して聞かせてくれた。豚も鶏も頂く時は感謝して頂く。

 終戦になって変ったこと、それは朝鮮の方々が、それまで働き方が悪いとか具合が悪いと言って休んだと言って、目にあまるお仕置きをした人たちが、あわてて山に逃げたことだった。その逃げた勤労係の人の社宅が近くにあって、噂だと家の人も鍵を掛けていたとか。今まで様々な形でしいたげられていた朝鮮の方々が、自由になって仕返しをする、とみんなが恐れていた。
 そして、どれくらいの日数を過してかよく覚えていないが、父の寮にいた朝鮮の方々は国に帰ることになった。父は何時も寮生を人間として平等に付き合っていたし、愛情を持って面倒を見てあげていたことが証明される形で函館まで同行した。出発の前日、朝鮮人労働者のリーダーさんが二人、わが家に挨拶に来て、泣いて別れを惜しんでくれた。
 函館から帰って来た父の話では、函館に着くと、函館名物のイカのスルメが沢山目についた。ひもじい生活だった朝鮮の方々は、すぐに飛びついてあらそって買った。父は待て待てと言って、帰国の為に鉱山が用意してくれたお金を『国で待っている家族の為に少しでも多く持って帰るように』と言って聞かせた。別れ際には、互の無事を祈って泣いて別れてきたと言った。身近に接する父は、お酒を飲むとくどかったり、何かあると母に当ったり欠点も沢山あったが、やっぱり父は尊敬出来て好きだった。

 戦争が終りにむかっていた。二年程を過した小向弘道は、自然が豊かで、水道が付くまで生活用水だった川には、赤腹とも呼んでいた石斑魚が群がって登っていた。社宅からオホーツク海へ向って歩いて行くと、途中に広い沼がある。そこでは大人の小指程の大きさの海老が沢山とれた。
 近所の人たちは仕事の休みの日に、誘い合って出掛けて行った。多い時には、バケツに半分以上も持ち帰り、ゆで上げて、家の前に広げて干していた。わが家では、父の休みもなくてそれを頂いて食べた。
 鶏も家から道路までの間が草原だったので、自由に放し飼いにしていた。産んだばかりの温かな玉子を集めるのは弟たちの仕事。
 家の前には防空壕を作ってある。空襲警報が出されると、子どもたちは入っているように言われた。
 そんな中で、すぐ下の弟は九年の早生れだったから、沼の上の漁場の親方渡辺さん宅から紋別の中学に通っていた。休みに帰って来ると、母は着ている物を洗濯して急いで乾かしていた。どんなに良くしてもらっても辛かったことだろう。その頃、子どもが十人もいて漁の時期、番屋暮らしの親方たちの留守をあずかるおばちゃんに、お世話になった。

 そんな状態の中で、終戦の日が来た。マッカーサー元帥が、日本に駐留するアメリカの兵隊さんは恐いから、若い女は頭の髪を切るように、とか、子ども心に大人たちの話は、不安になることばかり。
 前後したが、父が朝鮮の方々を函館から見送った頃から一日一日落ち着いてきた。食べ物がないとか、不自由だらけの日常でも、家族が肩を寄せ合ってすごすようになった。
 私は高等科卒業後、高校受験を希望したが、勤労成績がゼロなので資格がないことがわかり、無気力で『ふてくされ』ていた。終戦で無事学校に戻った先生に『俊子、今日は授業の後残れ』と言われた。しぶしぶ残っていたら、教室の大きなダルマストーブの上に、塩ゆでのジャガイモを焼きながら『食べれよ』と言う。そして、先生がその頃飼っていた山羊の乳も『ほら飲めよ』と差し出した。黙りこくっている私に『なー俊子、学校へ行くことだけが、生きていくのに大事とは言えないぞ。学ぶということは、社会に出てからでも、自分がその気であれば出来るんだ』と諭された。進められてロに運んだジャガイモが、涙と一緒になって塩っぱかったのを覚えている。
 でも先生の言葉は、カサカサしていた心にしみこんた。帰り道の四キロを病身でたいした薬がなくても今日まで生きてこられたし、この先は、先生の言葉のように『大きく目を開いて前をむいて生きていこう』と決めた。私は運がよくていい先生に恵まれた。生徒は、先生から知識や学問だけでなく、その人格からも大きな影響を受ける、といわれるが、本当にそうだと思った。

 私が育てた二人の子どもは、現在教職にある。願わくば、そのことに心して生徒に接してほしいと思っている。何せ、生徒は教師を選べないのだから。
 終戦の翌年、教育制度が変って新制中学になった。
紋別中学に通っていた弟も一緒に、再び鴻之舞鉱山に戻った。
 二年間を過した小向弘道では、学友を通し様々な出会いをさせてもらったし、親の懐のような鉱山の暮らしでは得られぬ経験をさせてもらった。八十士鉱山からの細い馬車道が国道に交わる所に、酪農家Nさん宅があった。畑に大きな種牛が繋がれていたが、綱が長くて通学の私たちの近くまでいて通れなかったことなど、土地の子どもにはなんでもないことが、私たち鉱山育ちの子らには大変なことだった。
恵みもいっぱい頂いた。牛や馬の飼料にと植えているデントコーンの実は、甘くて美味。酪農家のお宅から、直接わけて頂く牛乳のおいしかったことも忘れられない。
 食糧が乏しい鴻之舞鉱山では、大勢の人が食糧を、と筵旗を押し立て紋別へ行ったことなど、知らずに過していた。

 鴻之舞鉱山に戻った後、新規採用の女性三人の中の一人として、私は電話交換手になった。その後、勤労係、健康保険組合と仕事は変ったが、昭和二十九年、縁があって結婚するまでの八年間、鉱山に勤めた。周りの方々の優しいご指導があって、育てて頂いたと感謝している。

  特記したい事。

 戦後、鉱山再開の許可は当時のGHQが握っていた。何年だったか定かでないが、ボツボツ涼しくなって秋の気色が見えてきた頃(写真の中の服装から)だったと思うが、あのスマートなアメリカ兵の視察団が見えた。
 十人程での来山だった。鉱山視察の夜、宿泊された接待館での夕食会には、事務所勤務の工藤照子さん (現渡辺)、澤田京子さん (現上田)、そして私の三人が、接待係を命じられた。大袈裟に言えば、鉱山の存亡に関わることだったから、体がふるえる程緊張した。接待館には、旭川の北海ホテルからコックさんが助手を連れて来ていた。食糧事情の悪い時だったが、今まで見たこともない食材と料理を、調理室から長い廊下を落したりこぼさぬように神経を集中して運んだ。
 視察の方々の近くに寄ることがなんだか恐いように思っていたが、みんな紳士だったし、優しい笑顔で接してくれた。粗相がなく無事に終った時には三人で『よかったね』と手を取り合った。三人共汗をかいて顔が光っていた。大役を終えて、許可が早く来るようにと思った。それから暫くして、再開の許可が届いた。
 この事を実名で書くことの許しを得る為、連絡を取った。二人共笑って了解してくれた。
 『あの頃は若かったわねー』。

あとがき

 六月二十九日、北海道新聞に掲載された『語り継ごう鴻之舞の暮らし』の記事が目に止った。
 文芸オホーツク編集委員会が『閉山から間もなく三十年になることを考えて、特集号を発刊することにした』とある。胸が騒いだ。
 自分に文才があるなら、愛して止まぬ古郷鴻之舞での三十三年間を書き残したいと思ったが、己の力のなさは本人が一番わかっている。だが、悩んだ末、
書くことに決めた。
 読まれた方が『そこは違う』と思われるところは、お許し下さい。七十一歳の今、記憶の中の鉱山の暮らしのほんの一部分ですから。
 この先の年月のことは、自分なりに書いておこうと思っている。私が生きてきた証として・・・。

 (おさだ としこ)
※本稿は、文芸オホーツク11号に収録されたものをご本人様よりいただきました原文です。