鴻紋軌道記念碑除幕式と軌道の思い出  北斗市 八鍬金三様


「鴻紋軌道記念碑除幕式」

 この日は好天に恵まれ、抜けるような真夏の青空であった。それにしても鴻之舞の空は、モベツ川の両岸の山に切り取られて狭い。旭町や喜楽町のあたりはそうでもないが、元町から末広町にかけては特に空が狭い。だが山に挟まれたこの地に降り立つと、懐かしく、妙に落ちつく。やはり鴻之舞はふる里なのだ。

 筆者が会場に着いた時には、すでにかなりの数の人であったが、紋別から大型バスが着くと一挙に増えて、広い慰霊碑前の広場も人で埋め尽くされた感があった。
 30年ぶりの再会で挨拶を交わす人、肩を抱かんばかりにして語り合う人々で、にぎやかな情景である。バスから降りた中に、女性ばかりのひときわ華やかな一団が目を引いた。聞けば宮川 泰氏の指揮で「銀色の道」を歌う合唱団だという。
やがて宮川氏が車で着くと、合唱団の皆さんと早速打ち合わせを始めた。見受けたところ元気そうで安心したが、実はこれには訳があった。
 前夜セントラルホテルで宮川氏の歓迎会があったが、氏の体調が悪く、ホテルに入られた頃は、明日の除幕式の出席が危ぶまれていたのであった。
宮川氏が着座し会が始まると、遠目だか氏の様子に不安は見られず、何となく明るい雰囲気まで感じた。
やがて会も進み、氏の周辺に人垣が出来る頃には、笑い声まで聞こえてきた。そのうちにご本人の口から、「明日の記念式典には出席出来る」との言葉が出て、関係者ばかりでなく、事情を聞いた私たちまでホット胸をなでおろしたのであった。
除幕式の行事の中で、宮川氏指揮による「銀色の道」の合唱が、催し物の大きな目玉であった事は誰の目にも明らかで、予定通りに進行できる事になって何よりであった。
歓迎会場に入っている民放のテレビ局も、この合唱を撮影するのが、主な目的であったに違いない。

 時刻になり、まず住友金属鉱山主催の慰霊祭が行われた。鴻之舞金山で殉職された方を祭る慰霊碑の供養のために、年に一度執り行われる厳粛な慰霊祭である。普段は静粛な慰霊祭も、この日ばかりは少し違った。
テントに入りきらない人に加えて、記念碑の除幕式を目的に来られた人も多く、会場は終始ざわめいて、落ち着かない雰囲気であった。

 慰霊祭が無事に終わると、人々はドッと鴻紋軌道記念碑の周囲を取り囲み、いよいよ除幕式の始まりである。(参加者約230人)
記念碑横の鉱石が白布で覆われてある。除幕は、住友金属鉱山の元社長 篠崎 昭彦氏を始め、宮川氏など11人の手で行われた。
幕を取り払われた鉱石に近づいてみると、大きさに驚く、高さはゆうに2mは有るだろう。根元が地中に埋まっているので、全体は3m近いのではないかと思う。
一見したところでは、元山系の鉱石のようだが、この巨石を切り出すには、鉱脈の幅は1m以上が必要だと思う。脈数の多い鴻之舞鉱山でも、1m以上の脈幅を持った露頭となると、そう多くはない。元山本鉱床や、五号坑の露頭であれば可能だったと思うが、掘りつくされている。どこの鉱脈か見当がつかないが、この大きな鉱石を発見し、山中から堀り出した建立会の皆さんの熱意には、頭が下がる思いがした。

記念碑の除幕に続いて、宮川氏指揮による「銀色の道」の合唱が始まった。さすに見事な指揮で合唱もすばらしく、会場からは大きな拍手が沸いた。式典は、この後祝辞に移って無事に終了し、場所を紋別に移す事になる。

式典が終わると多くの人が記念碑を囲み、鉱石の感触を確かめるように記念碑をさする人、周辺に砕いて撒かれた鉱石を拾う人など、30年振りの鴻之舞に別れを惜しむ風景がしばらく続いた。

 紋別では、旧国鉄紋別駅跡の「オホーツク氷紋の駅」に、鴻紋軌道記念碑が建てられ再び除幕式が行われた。(紋別側の参加者約200人)この地でも、宮川氏と合唱団による合唱が披露され、鴻之舞とは関係のない紋別市民の方々からも、大きな拍手が湧いていた。
式典はこれですべて終了し、場所を市民会館に移して祝賀会になる。

 祝賀会は、田中常夫会長の式辞に始まり、来賓の祝辞、篠崎氏と宮川氏に花束の贈呈と行事が進み、懇親会に移ったが、ここで宮川氏から思いがけないプレゼントが披露された。即興でピアノ演奏を始められたのである。
ご自分が編曲された曲、テレビなどで聞きなれた曲などを混ぜながら、楽譜なしに20分は演奏を続けられたと思う。
会場は大興奮で、大いに盛り上がったのは言うまでもない。祝賀会の予定表にない、宮川氏のサービス精神からの出来事であった。

記念碑除幕式と祝賀会を盛り上げて下さった宮川氏が、その2-3年後に突然亡くなられた。テレビなどで元気に活躍される姿が見られなくなり、同郷で同期生の一人として、実に寂しい。心からご冥福をお祈り申し上げる。



「鴻紋軌道の思い出」

 鴻紋軌道の建設が始まったのは昭和15年(1940)と言うから、筆者が9才の頃である。当時は末広町に住んでいたが、裏山が削られて路床が作られ、線路が敷設される工事の事は記憶にないが、工事用のトロッコで遊んだ覚えがある。
変電所の付近まで押し上げて行き、末広の鉄橋に向かって1kmくらい走らせるのだが、かなりの下り勾配でスピードがついて面白かった。止めるにはブレーキが必要だったが、見よう見まねで板ブレーキを押し付けて止めたように思う。トロッコは土方トロッコで、子供でも4-5人もいれば持ち上げられる程度のものだった。いま考えると子供の遊びにしては危険だったが、工事の人の目を盗んでの事で、何度もできた事ではないと思う。

その内に、上モベツに曙町と言う社宅街が出来て転居し、軌道で鴻之舞の学校に通うようになった。紋別まで軌道が完成するのは昭和18年(1943)だが、上モベツ付近までは早くに出来て、通勤や通学に利用出来たに違いない。通勤や通学には客車が使われ、毎日のように曙町と元町の停留所で乗降した。
当時子供心には、運転をする機関士さんが眩しいほどに偉く見え、憧れの的であった。車掌さんが必ず一人乗車するが口うるさく、子供にとっては煙たい存在であったが、いまになって考えると子供たちが騒ぎたてるので、危険の無いように注意をしてくれたのだと思う。

昭和18年(1943)に金山が休山になり、住まいが曙町から住吉町に変わったが、この頃から軌道を使って紋別に出られるようになった。だが好きな時に何時でも利用出来たわけではない。世話所という会社の施設で乗車の許可を受け、元山駅で往復の切符を貰い、はじめて乗車ができたように記憶している。
始めて汽車で紋別に出たときに、元紋別の谷合いから海が見えた時の感激を、今も鮮明に記憶している。何しろ始めて海を見たのだ。だが「海だ、海だ」と騒いだのは、子供だけではなかったようにも思う。
紋別の港祭りの時などは乗車する人が多く、客車や屋根付きの貨車では不足し、屋根なしの貨車にも乗せられた。線路が登り勾配になると、機関車から焼けた煤が降って来るので油断が出来ない、あちらこちらで衣服から煙が出たと大騒ぎだ。それでも汽車で紋別に出る事は、年に何度もない楽しみであった。
紋別駅は、国鉄の紋別駅に接近して作られていた。軌道の貨車から国鉄の貨車に、貨物を直接移せるように引込み線が敷設されていた。

線路の勾配は、鴻之舞から紋別に向かう際は、何ケ箇所かを除いておおむね下り勾配だったが、反対に鴻之舞に向う場合は、ほとんどが昇り勾配であった。特に栄町はずれの崖付近の鉄橋から、沈澱池を通って末広駅に至る区間は、傾斜が強かったようである。汽車が鴻之舞に入って、現在の採石場付近を過ぎたあたりになると、しばしば停車して盛んに石炭を焚く。きつい勾配に備えて、機関車の蒸気を蓄えるためである。それでも沈澱池の土手のあたりに差しかかると、あえぎあえぎに登り、人の駆け足程度の早さで走った。
この間の線路勾配を、地形図で調べて計算してみると、高低差は25m-30m、距離はおよそ1,800mなので、勾配は90分の1から72分の1になる。これでは勾配が強すぎるように思うが、数字の読み取り誤差があるとしても、100分の1勾配よりも強かったかと思う。

雨が降って線路が濡れると、さらに苦労があったようだ。昇りの際には機関車の車輪が空転し、砂を撒いても登り切れずに後退し、機関車が蒸気を上げた所まで戻る事があった。これが下り勾配になると、線路が滑り機関車のブレーキでは制御できず、牽引している貨車のブレーキの助けを借りていた。車掌さんが、走っている列車の貨車から貨車に乗り移りながらブレーキを掛けていたが、危険な事だったに違いない。あまりに速度が出すぎると、崖の鼻先のカーブで脱線と言う事態が考えられる。その先は鉄橋であるから、事故を防ぐために取った処置だと思う。

鴻紋軌道が廃止になり、撤去されたのが昭和25年(1950)なので半世紀以上が過ぎた。道路を車で通過すると、つい軌道の線路跡を目で追ってしまう。軌道跡を確認できるのは、鉄橋の橋脚が一番分かりやすい。末広や栄町はずれの橋脚は目立って分りやすいが、桜橋と万世橋の橋脚は木陰で少し見えにくい。
軌道の路床跡になると、はっきりと確認できるのは1箇所だけになった。それは万世橋から鴻之舞に向かうと、道路が山の尾根筋を堀割った所が有る、その先は盛り土になっているが、この掘割りと盛り土の場所が、線路跡であった。
以前の道路は、尾根筋の先端を急なカーブで通っていた。改良工事を機会に、線路跡の掘割りを広げ,掘下げて道路にしている。
これ以外には、たとえ線路跡と知っていても、盛り土は崩れ、掘割りは木で覆われてしまい、今では線路跡だと言い切れる場所は見つけ難くなった。

鴻紋軌道は、悲運の鉄道と言えるかと思う。
政府の強い要望と、更なる増産のために建設された軌道が、皮肉にも休山命令で、製錬所の施設を解体して転用先に運搬する役目を担わされた。活躍の場は、敗戦後に休山中の鉱山を支えるために、高品位の鉱石を紋別まで運搬した事と、昭和23年(1948)に金山が再開されて、建設資材の運搬に活躍するはずが、それさえもトラック運搬の進出で活躍の場は狭かった。
昭和24年(1949)に廃止が決り、翌年にはすべて解体されている。軌道が完成してから、わずかに5-6年の寿命であった。

~おわりに~
悲運の鉄道としたが、昭和18年から再開が決まる22年までの5年間は、鴻之舞在住の者にとって、鴻紋軌道が紋別との唯一の交通手段であった。特に戦後の食糧危機の際には、鉱山を守るために残留した450人と家族の生命線で、軌道を使って畑の開墾に励み、農家への買出しと、乏しい食料の補いのために活躍してくれて、おかげで危機を乗り切ることが出来た、私たちにとっては忘れがたい、ありがたい鉄道であった。