ある測量士の記憶から 北斗市 八鍬金三様


はじめに
鴻之舞鉱山には昭和7年(1932)に山形から移住したが、自分には幼なくてその時の記憶は無い。以来40年間住み続け、鴻之舞の盛衰を見ながら育ち、昭和22年(1947)からは鉱山に就職し、47年(1972)に転勤するまで25年間勤務した。私の人生は鴻之舞で始まり、育てられたと思っている。
 その鴻之舞鉱山も、昭和18年(1943)の休山から23年(1948)の再開と発展、そして衰退、48年(1973)にはついに閉山と、短い期間に劇的に変化し、私もその中にあって喜びと悲しみを味わった。
 昭和20年(1945)の敗戦を境に、日本中が変ったのと同様に、鴻之舞も生活環境が大きく変化している。こうした変化と、勤務中に見た鉱山の変遷を、記憶をたどりながら書き綴ってみる。
文章の中には、あるいは不正確な部分もあると思うが、それは正しく記憶されている方に訂正して頂く事にして進めていく。
お読み頂く前に、時期を区切る言葉として昭和二十年(1945)を境に「戦前」・「戦後」に分け、鉱山の歴史で昭和18年(1943)以前を「休山前」、23年(1948)までを「休山中」・その後48年の閉山までを「再開後」として、使い分けするので了解を願いたい。

 この文章では生活面のほかに、鉱山の出来事にも触れているので、簡単に私の経歴を書いておく。鴻之舞鉱山には、再開前年の昭和22年(1947)に就職、閉山前年の47年(1972)に転勤するまで勤務した。職歴は測量係に20年間、その後探査係に5年間在籍した。この関係で鉱山の事は、探査や採鉱に関係した事が多い。ただ測量と言う仕事柄、多くの坑(鉱床)を見たり知る事が出来た。また坑内作業の移り変わりも見ているので、それらを書き記してみる。

なお、以下の本と文献を、参考資料として利用させていただいた。厚くお礼申し上げます。

  住友金属鉱山編纂  住友鴻之舞金山史  2003年発行
                鴻之舞五十年史   1968年発行

  鉱山学会発表論文     
    安田  汪   鴻之舞製錬所の金銀青化製錬
    森口 義道   鴻之舞鉱業所の金銀青化製錬
    橋本 浩治   鴻之舞鉱山の鉱石・脈質について


1) 坑(鉱床)と鉱脈
 鴻之舞金山には、名称の付いた「坑または鉱床」は、筆者の知るかぎりでは36個所有り、なかで鉱石を産出したのは20個所である。
鉱山の範囲は、北は上モベツの三王坑から、南は旧丸瀬布町境の焼山坑まで、南北約12km、東西約4kmである。
全部の「坑名」を記してみるが、その中で「元山坑」と「倶知安内坑(注1)」、それに「三王坑」は、多数の「坑」群をまとめた名称であって、少々まぎらわしいかと思う。
例をあげると、「元山坑本鉱床」、「倶知安内五号坑」、「三王坑鞍馬ヒ」(注2)などと使われた。
また、たとえ「坑」の文字が付いても、鉱脈があるとは限らない。新らしい場所で探鉱坑道を計画すると、○○坑と名称を付けた。そのあと坑道を掘れば、たとえ鉱脈が無くても坑名は残った。

ここで全坑(鉱床)名を記してみる。
「元山坑」の範囲には11の坑(鉱床)が有り、なかで鉱石を産出したのは、鴻之舞金山発祥の本鉱床、ついで第一、第二、第三鉱床、住吉坑、藤島坑、積善坑、高峰坑の8個所である。探鉱で終ったのは、松原坑、神社坑(注3)、元山東部の3個所であった。
「倶知安内坑」の範囲には14個所の坑があり、鉱石を産出したのは、二号坑、三号坑、四号坑、新坑、新々坑、五号坑、六号坑、八号坑、八号坑北ヒの9所で、探鉱で終ったのは、一号坑、豊島坑、関の沢坑、小部の沢坑、クマの沢坑(注3)の5箇所である。
「三王坑」には本ヒと北盛ヒ、スミレヒ、鞍馬ヒがあり、本ヒと鞍馬ヒは鉱石を産出している。三王坑だけが本ヒなどと「ヒ」の文字か使われたのは、昭和8年に住友が買収するまで他社の経営だったためと思う。
その他に、独立して点在する「坑」は7ケ所で、焼山坑、白竜坑、黒竜坑、上の沢坑、熊の沢坑、砂金の沢坑、金竜坑がある。この中で白竜坑のみが鉱石を産出している。

(注1)
倶知安内(クチァンナイ)と読み、上モベツ桜橋付近でモベツ川に合流する川の名称から由来する。現在の地図ではクッチャナイ川と言う。鴻之舞の西側に位置し、山の尾根を挟んでほぼ並行に流れている。
(注2)
ヒの文字には、鉱山では「樋」の文字の木偏を、金偏にした文字を当てるが、漢字コード表に無いのでカナの「ヒ」を当てた。
(注3)
神社坑とクマの沢坑は、坑口を持たない「坑」である。神社坑は、住吉坑170ML E90B付近から北東に600m掘進した探鉱坑道で、クマの沢坑は、八号坑200MLでクマの沢(製錬所横の沢)沿いの分岐脈名である。


2) 「鉱脈の数」
 名前の付いた「鉱脈」の数となると、無数というより他にない。もし記録があって正確な数が分かるのならぜひ知りたい。
鉱脈の数が多いのは、規模の大きな鉱脈になると並行脈が伴い、脈の終端になると分岐する事が多く、これら分岐脈を掘進したり採掘をするには名称が必要になり、脈名は増えていった。
多数の坑(鉱床)の中で、もっとも鉱脈の数が多いのは、元山第一鉱床と思う。馬尾状鉱床と表現するのを聞いたが、扇子を三分の一ほど開いた状態に似て、骨の部分が幅の広い脈で二脈から六脈の名称が付けられた。その脈の間に品位の高い細脈が多数あって、坑道を掘るたびに脈数が増えていく、脈の数は、170MLより上部でも50本前後はあったと思う。再開後にも細脈を掘進して、4-5本は脈名が増えていた。

註 鴻之舞金山史に、第一鉱床の脈数を95本と記載されている


「鉱床(脈)の広がりと品位」
 鴻之舞金山は東洋一の金山とか、大鉱床(脈)が多いと言われたが、具体的に数字で示さなければ分らないと思う。
鉱脈の長さでは八号坑が最長と思う。八号坑北側の延長上には、モベツ川を挟んで八号坑北樋があり、その先端は五号坑と合流してなお延びている。南側は豊島坑の南押しにつながり一連の鉱脈である。図上で測ると延長は約4,000mになり、大鉱床には違いないが総体的に低品位で、3,000m以上は採鉱の対象にならなかった。
鴻之舞で規模が最大と言われた五号坑は、延長約2,200mである。元山坑で最長は第三鉱床で約1,200m、他の鉱床は250ー700mで、住吉坑は約900mであった。
次に、鉱脈の深さを見ると(坑道で確認した範囲)、長さで一番だった八号坑は320m、五号坑は500m、元山坑は200m―300mで、住吉坑は220mであった。
鉱脈の平均幅は八号坑が7m、元山坑は2m―5mで、五号坑は平均10mと言われたが脈の膨縮が激しく、西部では30m以上の所があった。
品位は鉱脈別の資料が無いので、産出実績から鉱石の品位水準を調べてみた。
昭和24年から30年の実績で、生産量は171万7千トン、この期間の年度別平均品位は金が6.9から9グラム/トンで、銀は110から220グラム/トンであった。これからも鉱石と評価するには、金が6グラム/トン以上必要だった事がわかる。実際に再開後は、5グラム以下は採掘の対象にならなかったと思う。
ここで品位がグラム/トンとあるのは、鉱石1トン中のグラムの事で、百万分の1グラムを言い、非常に微量である。
鉱石の品位は、坑(鉱床)によって高低があり、また鉱脈が同じでも場所によって変動が多く一様でない。そのために採掘計画には、精密な品位図が必要だった。鴻之舞鉱山では、全鉱脈で3メートルごとに品位を測定し、図面に記録した。鉱床(坑)の中で、比較的高い品位の鉱石が多かったのは、元山坑本鉱床・第一鉱床・第ニ鉱床、住吉坑、五号坑、三王坑だったと思う。

 住友鴻之舞金山史に「鉱床別出鉱量(推定)」が記載されているので転記する

   鉱床名   出鉱量(万トン)  金 (g/T) 銀 (g/T)
   五号鉱床     629.3      5.8     111
   元山第二鉱床  137.1      7.9      67
   住吉鉱床      105.0      6.4      72
    八号鉱床      53.3      4.5     160
   藤島鉱床      52.0      4.7      89
    元山本鉱床    51.9      14.4      69
    元山第一鉱床   32.9       8.5      67
   元山第三鉱床   14.6       3.6     266
   二号鉱床      11.5      4.7     176
   六号鉱床       5.7      8.5      98
    その他鉱床    38.9      4.9     113

     合 計  1,132.3 6.4 109 


3) 「長大な探鉱坑道」
 鴻之舞金山の地形図には、過去に探鉱した坑道すべてを書き込んであるが、山々を縫って直線に引かれた線がすべて坑道と知った時には、きっと驚くに違いない。
探鉱坑道でもっとも長いのは元山坑第二通洞で、本鉱床に着脈後方向を変えて、第一鉱床・第二鉱床、第三鉱床・藤島坑と積善坑下部へと一直線に掘り進んで、総延長は3,300mに達する。
他にも焼山坑の露頭下160mの位置で、南に掘進した0ML通洞は、2,300mで旧丸瀬布町の伊奈牛沢に貫通している。
また五号坑第一通洞は、五号鉱床に着脈後さらに掘進を続け、二号坑と三号坑の下部を通過し、総延長2,800mで上モベツ クチァンナイ沢の山腹に貫通しているなど、1,000m程度の探鉱坑道は、数え切れないほどである。
再開後にも、鴻之舞市街地の東部で探鉱計画が立てられ、住吉町と元町の裏山を掘抜きながら、総延長3,600mを掘進した。この探鉱で住吉鉱床を発見し、再開後の発展の基礎になっている。
 なぜこのように長い探鉱坑道が次々と掘られたのか、理由のひとつに、鉱山の初期の段階で露頭が無いか、兆候の少ない場所を坑道掘進して、優秀な元山第一鉱床と第二鉱床・第三鉱床を発見した事にあると思う。この探鉱方針は、それ以後もずっと引き継がれ、新鉱床探査の有力な手段として用いられた。
部分的だが「鴻之舞五十年史」に探鉱坑道の掘進実績が記されているので転載してみる。
   昭和10年(1935)~12年(1937)   22,247m
  昭和15年(1940)~17年(1942)    47,872m
     16年(1941)           19,630m
昭和16年(1941)は休山前の最盛期で、政府の強い要請で大増産に励んだ年なので、特に探鉱量が多かったと思うが、それにしても1年間に20km近い坑道を掘進しているのには驚く。ひと発破ごとに約1mずつ掘り進んだ積重ねの結果であるから、大変な数字と言うほかはない。


4) 「坑内にも番地(線)がある(平面位置の表示)」
 周囲がすべて岩盤の坑内では、図面上と現場が共通に使えて、分りやすい位置表示の方法が必要になる。鴻之舞金山には、次のような基準が設けられていた。
市街地と対比すると分りやすいと思うが、町名に相当するのが「坑」で、道路に相当するのが鉱脈名か坑道名になり、地番に相当するのが番線になる。番線は1番が3mで、方向は鉱脈と直角にした。位置の表現は、○○坑○脈○○ML(高さ)○B(番)とあらわす。
 注(読み方) ML(メータレベルと読み高さをあらわす) B(バンと読む)
基準になる番線のゼロ番は、通常初めて鉱脈に着脈した位置にする事が多い。主要な坑道には10番ごとに木札を貼り表示した。
坑内図には、10番(30m)ごとに線を引き、0B、E10B、W10B、N10B、S10Bと記入した。
元山坑では、本鉱床の着脈点をゼロ番にして、東西方向にに番数を付けている。この番線は、本鉱床ばかりでなく、第一、第二鉱床、さらに本鉱床から1.3km離れた第三鉱床にも適用した。
五号坑の場合は、露頭から200m下の第一通洞が着脈した地点をゼロ番にしている。番線の方向は磁方位の南北に合わせ、東西に番数が付く。大鉱床なので東は400番以上、西は350番の数字が使われたと記憶している。
八号坑の場合は、鉱脈の方向が南北に近く、番数にNとSが付いた。

「坑内での高低差の表し方」
鉱床(脈)は、脈方向の広がりの他に、傾斜しながら下に伸びている。鴻之舞鉱山では、最初に露頭に向けて掘った坑道を0ML(ゼロメータレベル)として基準にし、深くなるに従って数字を増していった。
鴻之舞鉱山が開かれたのは、大正5年であるから、当時は尺で高さをあらわした。数字は区切りよく、百尺坑道、三百尺坑道、五百尺坑道と名付けたが、のちにメートルに換算されて、それぞれが30ML(メータレベル)、100ML、170MLと改めた。
元山坑の230MLが、倶知安内坑の200MLと一致し、昭和32年に軌道で結ばれ、トラック輸送から鉱車による運搬に切替えられている。


5) 「鴻之舞金山の採鉱量」
 再開後に鉱石を採掘したのは、元山坑第一鉱床・第二鉱床・二号坑・五号坑・六号坑・八号坑・住吉坑・藤島坑と多かったが、この中でも五号坑は、出鉱量の大半を担い特別な存在であった。
鴻之舞鉱山で五号坑がどのような比重を占めていたのか、「鴻之舞五十年史」で鉱石の産出比率を見ると、休山前の記録で古いが昭和15年(1940)から3年間の総出鉱量199万トンのうち、五号坑は103万トンで51パーセント強を産出している。元山坑は、本・第一・第二・第三鉱床を合せても75万トンであるから、すでにこの頃から五号坑が際立った存在を示していた。
再開後は、この記録以上に五号坑に頼ったが、鉱脈には限りがあるもので、さすがの五号坑も昭和30年代なかばに衰えが目立ち、鉱山もともに衰退していった。再開後に発見した住吉坑と藤島坑も、この流れを止めるだけの力は無かった。
「住友鴻之舞金山史」に、五号鉱の総出鉱量が記されているので、数字を引用する。
先に「鉱床(脈)の広がりと品位」のところで、鉱床別の出鉱量と金銀の品位を記したので、もう一度見て頂きたい。
鴻之舞鉱山の総出鉱量が1,132.3万トンで、その内五号坑は629.3万トンを産出している、率にして55.6パーセントである。

「坑内環境」
 坑内の環境は、各坑(鉱床)ともすべて異なっていた。大鉱脈になると含有鉱物の酸化熱で暑い所、冷えて寒い所、また乾燥が激しく歩くと粉塵の起る所もあれば、湧水が多くて水が流れている所など、様々であった。特に五号坑は、西部は温度と湿度が高く、反対に東部は温度が低く、同じ鉱脈でも環境は違っていた。


6) 「五号坑」
 再開後の鴻之舞を支えた五号坑を坑内の代表として、坑内環境や施設を書いてみる。
五号坑の鉱脈の規模は、延長約2,200m、西の端はクチャンナイ沢に近く、東はモベツ川を越えて八号鉱床と合流し、なお続いている。
鉱脈の深さは、山頂の露頭から最下部の坑道まで約500m、平均幅は10mと言うが広いところは30m以上もあった。脈方向は東西に近く、北に55度傾斜している。
昭和2年(1927)に鉱区を買収して開発を始めたので、五号坑の歴史はかなり古い。鉱床上部の開発中に鉱況の悪さから、五号坑の将来を悲観されたが、昭和6年(1931)に200mレベル第一通洞で6m幅の鉱脈に着脈して、大鉱床としての評価が固まった。
五号坑の坑内は、鉱脈の露頭下にはじめて掘った坑道をゼロメートルとし、下に向けて数字を増やして「○○ML(メータレベル)」と坑道をレベル名で呼んでいた。最下部の坑道は500MLで、20mから35mの間隔で坑道を設け、主要な坑道は14階層あった。200MLを基準にして、それから上を上部、下を下部と呼び分ける場合もあった。
平面位置は、200ML第一通洞の着脈点をゼロ番にし、一番を3mとして東西に番数を付けて位置を示した。現場には十番ごとに主要な坑道の壁面に「○○ML E(またはW)○○B(番)」(○○メータレベル ひがし○○ばん)と木札を打付けて表示した。
竪坑は0B(ゼロバン)付近にあったが、竪坑を境にして、東側約1,200mを東部、西側約1,000mを西部と呼んだが、東部と西部では坑内環境は大きく異なっていた。
東部は全般に岩質が硬いので留枠の坑道が少なく、換気が良く温度が低いので坑内環境は良いが、鉱石の品位は低かった。採掘法は岩質が硬いため、30mから50mの長い採掘場を設け、全脈幅で鉱石を足場に掘り上がる、シュリンケージ採鉱法が用いられた。
いっぽう西部は、鉱脈と岩盤が軟弱で、留枠の坑道が多く、坑道の維持が難しかった。その上に、含有鉱物の酸化熱と通気(空気の流れ)の悪さから、温度(25度から30度)と湿度が高く、ジメジメとして坑内環境は悪いが、品位が高いので鉱脈の大部分が採掘の対象になった。採掘法は、小区画の採掘場を数多く設け、留枠で崩れを抑えながら採掘する方法が採られた。この採掘法は、大量の坑木が必要で、手間もかかりコストは高くなるが、品位の高さから採算は取れたようだ。
200MLには第一通洞坑口の他に、竪坑や火薬庫、変電設備などの主要な坑内施設があった。
 坑内で新鮮な空気を確保する事はとても重要で、専任の保安係員が常に巡回して、測定器で空気の流れを計測していた。一般に坑内の空気は、冬は流れが良く下から入って上に抜け、夏は反対に上から下に流れて、空気が澱むと言われる。
五号坑の場合は、坑口のある200MLより下部に、270mの深さに6階層の坑道があって、良好な空気の流れを確保するのは困難だったように思う。対策として、上部坑口に大型ファンを設置して強制排気をしたり、坑道に扉を設けて通気を制御するなど、様々な努力が払われていた。
 五号坑には何ヶ所か坑口があったが、ふつう五号坑の坑口といえば、200MLの第一通洞坑口を指した。作業員の入出坑、機材の搬入出、鉱石の搬出など、すべてがこの通洞(坑道)と坑口を通過していた。
閉山から28年後の、平成13年(2001)に鴻之舞を訪ねて、第一通洞の坑口をしばらく振りに見たが、周囲には立木が繁り、坑口を巻いているコンクリートが剥げ落ちているなど、昔の面影はなかったが、「倶知安内第一通洞」と刻まれた石板を見上げた時は、まだ鴻之舞が在ることを実感でき、心強い思いがした。
鉄製の扉を開けて通洞内に入ると、かつては坑内に延々と延びていた複線の軌道も、圧縮空気を送ったパイプも、送電ケーブルも、すべて取払われて何も無い、ただ数本の丸太が置かれているだけであった。通洞の奥はただ暗く、寒々とした光景でどこか別の坑道を見ているような気持ちがした。

「五号坑の設備」
 再開後の最盛期には、一日に千トン近くの鉱石を掘り出し、400人前後の人が働いた五号坑には、様々な設備が設けられていた。
主なものに、200MLには第一竪坑、第三竪坑、東部斜坑、火薬庫、火薬取扱所、変配電所、係員詰所、電車車庫、100人規模の休憩所などがあり、下部坑道には排水ポンプ場、電車車庫、休憩所などが設置されていた。
 第一竪坑は昭和8年に起工し、300m掘り下げて下部開発の拠点とした。操業を始めてからは、人員と機材の運搬に加えて、東部斜坑と共に鉱石の運搬を受け持ち、昭和33年(1958)の運搬合理化で第三竪坑が完成するまでは、二交代でフル稼動を続けた。
第一竪坑は、縦横の大きさは縦横約10mX3mで、30cm角のナラ材で三間に区切り、ひと間は排水パイプを敷設し、残りのふた間はケージ(鉄製の乗物)の運行用であった。人の昇降は朝・昼・夕の三回に決められ、他の時間はすべて鉱石と機材の運搬に使われた。昇降の合図は、電鈴のブザーが頼りで、物資と人では合図が異なっていた。ケージでの昇降は、枠の狂いから揺れが激しく、乗り心地は最悪だったが、人道(人専用の昇降坑道)を昇る辛さを考えると我慢できた。
 鉱石と機材の運搬用機関車には、6トンの有線電車2両と、4トンと2トンの蓄電池機関車が何両か配置され、有線電車は主に鉱石の搬出を受持ち、蓄電池機関車は鉱車と機材の運搬に使用されていたが、次第にディーゼル機関車に替えられ、下部坑道以外では電気機関車は見かけなくなった。
電車ばかりでなく、坑内の様々な作業も機械化と合理化が進み、変化は早かった。穿孔作業は削岩機の小型化と軽量化に加えて、重く大量のタガネが超硬ビットに変り、二人作業が一人になるなど、改良と合理化が進められた。
運搬作業も、スコップ積みがローダー操作による機械積みに変り、鉱石のかき込みも人力からスクレーパーの操作になるなど、重労働だった作業の大半が、機械操作に変るのを見て、変化の早いのに驚いたものである。
 作業者は、坑口から人車で入坑すると、竪坑で下部坑道に向かう者、着替えて現場に向かう者に別れる。作業者用の休憩所は、各レベル坑道ごとに設けられ、朝夕の着替えと昼食時に利用された。休憩所は電気ヒーターで暖房され、寒い東部や汗と湿気で汚れる西部でも、快適に過ごせるように造られていた。
機械設備ではないが、軌道とエアー(圧縮空気)パイプ 、それに送水パイプの3点は、坑内の操業に欠かせない設備であった。
エアーは、削岩機や鉱石を積むローダーなどの動力源で、送水パイプは削岩機に給水する他に、作業者の生活用水でもあった。軌道は鉱車や機関車のための線路で、掘進や採掘の現場にはこの3点がセットで必ず敷設されていた。
電気も動力源として、排水ポンプや竪坑・斜坑の巻揚機の動力として使われたが、坑内の末端の切羽で使う動力は、すべてエアーであった。

「危険な坑内」
 坑内で何が一番危険かと聞かれても、おそらく人によって違い、一概には決められないと思う。キャップランプひとつを頼りに暗い坑道を歩くと、落盤、崩落、落石や墜落などが、何時起きるか分からない。また刃物の怪我、機械の運転事故等、危険はいたる所にあった。会社も保安教育のほかに、月一度の保安懇談会など、対策に力を注いではいたが、事故は絶えなかった。
坑内に入るときは、必ず照明を持ち、ヘルメットをかぶり、安全保安靴を着用した。照明は、カーバイトを使ったカンテラから、蓄電池式キャップランプに変って、とても便利で安全になった。カンテラは、強い風が吹くと消え、天井から落水があっても消えやすく、点火もしにくいなど不便な事が多かった。
 坑内が暗い事は理解できると思うが、灯火を無くした時の恐ろしさと不安は、坑内経験の無い人には分らないと思う。カンテラの頃には、灯火を無くした時にはむやみに歩き回るな、じっとその場で待てと教えられた。坑道には足元に穴が開いていたり、古い坑道が多く、誤って入って行くと、酸欠ガスで命を落とす事さえ考えられる。その場所を動かなければ、仲間が気付くか、遅れても入出坑時の札の照合で気付き、必ず探し出してくれる。キャップランプになって少々重くなったが、カンテラよりはるかに明るく遠方が見えて、安全さがはるかに増した。
坑内では、普通に歩く時でも注意する事が多かった。足元の軌道の枕木は滑りやすく、時には岩石などにつまづく。頭上の留枠や天磐は突然低くなったり、漏斗の木枠が突き出ているなど、頭上と足元の双方を同時に注意しなければならない。坑内に馴れない内は、つい足元ばかりに注意がいって、ヘルメットを思いっきり打ち付けて、しばしば痛い思いをした。
 頭上や足元ばかりではない、聞こえる音にも注意が要る。張付け発破の合図の声が聞こえたら、即座に安全な所に戻らねばならない。たくさん有る漏斗のどこで爆発するか分らないのだ。鉱石を抜き取る漏斗が大塊で詰まると、火薬を粘土で張付けて爆発させ破壊する。通常一人作業なのでどちらか一方方向に「ハッパー、ハッパー」と声を出しながら退避するが、たまたま退避した方とは反対側から近づき、直ぐ近くで爆発が起きて驚いた事があった。漏斗抜きの人は、坑道の奥には誰もいないと思ったらしいが、測量の仕事をしていると、古い坑道に入る事が多く、こうした事態に会いやすかった。

7) 「酸欠ガス」
 鉱山特有の現象と思うので取り上げてみた。
鴻之舞では「酸欠ガス」と称していたが、正確な呼び方、成分などは知らない。素人でも分るのは空気中の酸素が少ないか、またはまったく無いに等しい状態の空気と言う事だ。
酸欠ガスは、たとえ発生していても薄ければ危険はなく、少し頭痛がする程度であった。酸欠ガスの有無は、カンテラの火が(アセチレンガスの灯火)暗くなるので分かる。ガスが濃くなるほど暗くなり、ついには消えてしまうが、このような所に留まるのは危険で、命にかかわる場合がある。ガスの多発地域は、元山坑東部と、元山坑第三鉱床より南側、また藤島坑全体であった。
酸欠ガスは、気象が低気圧に向かうと発生を始め、高気圧に向かうと解消するので、多発地域で作業する場合は、気圧計の変化に注意が必要だった。場所によっては、ファンを使って強制的に換気をしたが、それでも低気圧が強いと、立入っては危険な場所が生じた。また、発生地域で作業をする時は、カンテラの使用を義務付けられ、作業者も火口から出る炎の色に注意を払っていた。
酸欠ガスは行止まりの坑道とか、高所に滞留する事が多く、思いがけない所でガスを吸い、転落などの災害に遭って命を落とした者もいる。
坑外の鉱床探査のボーリング工事で、強い低気圧の時に酸欠ガスの噴出を確かめたことがある。孔口に手をかざすと、かすかだが確かにガスの噴出が感じられて、孔口に火の付いた紙をかざすと一瞬にして消えた。火の消える位置を調べると、3m以上も噴出して危険なので工事は休止した。
反対に気象が高気圧になると、逆に孔口から空気を吸い込む現象が起きる。時には風音を立てて吸い込む事もあって、まるで地球が呼吸をしているように感じ、不思議に思ったりした。ボーリング工事でこんな現象が起きるのは、鉱床地帯の岩盤は亀裂が多く、孔内の水が漏れて空穴になるのも一因と思う。
前記の地域外の坑内でも、長い行止まりの坑道では自然に酸素が少なくなり、状態は似ていたが、気圧の変動でガスが出る事はなかった。


「坑外の施設」

9) 「索道」
 昭和16年(1941)頃の鴻之舞鉱山には、丸瀬布―鴻之舞元山、元山ー倶知安内(五号坑)、それに倶知安内ー三王坑と三本の索道があった。元山と倶知安内で、三本の索道の始点と終点が接していて、見方によれば丸瀬布から上モベツの三王坑まで、総延長約20.1kmが索道でつながっていたとも言える。
現在と違いトラック輸送が未発達の頃で、鴻之舞鉱山の操業と発展に不可欠なものであったろう。記録と記憶を頼りに各索道のあらましを記してみる。

「鴻之舞~丸瀬布索道」
 昭和7年(1932)に稼動を始め、昭和28年(1953)頃まで運行していたようだ。
地図で調べると全長は約13.5kmで、中継所が紋別市と丸瀬布町の境界の、第二焼山坑に近い海抜570mの山の尾根にあった。鴻之舞から中継所までは約7kmで、中継所から丸瀬布まで約6.5km、わずかに右に折曲がっていた。中継所には、両方向の索道から着いた搬器(索道のバケット)を押す人が6ー7人常駐し、人里離れた山中で不便な暮らしに耐えながら索道を守っていた。
索道は単線式で、丸瀬布から鉱山の資材と生活物資を運搬するのが、主な目的であった。鴻之舞側の起点は、元山製錬所敷地の最上端南側に位置していた。
丸瀬布側の起点は、丸瀬布駅から少し遠軽寄りで、鉱山の出張所も設置され、数人の係員が常駐していた。
索道を支える木製ヤグラの中には、50mを越す高さものが有るのを設計図で見た覚えがある。単線の索道は風に弱く、強風が吹くと運行が止まり、時には搬器の落下もあったと聞いた。索道で働いた人の話に、仕事で一番難儀したのは、ヤグラのロープを支える車輪に油を補給する事と聞いた。山中の藪道を歩き、高いヤグラを昇り降りして索動の保守をするのがいかに困難か、理解できるような気持ちがする。

「倶知安内~元山索道」
倶知安内坑と三王坑の鉱石を、元山製錬所に運搬するために昭和7年5月に単線式で運行を始めた。昭和10年7月に鉄骨ヤグラに建て替え、複線式に改造している。延長は約1.9kmで運搬能力は10時間当たり900トンである。
倶知安内側の起点は、八号橋付近の山際の建屋で二階建であった。下の階は元山向索道の積込場で、上の階は三王坑索道の終点で搬器の降し場と、五号坑と八号坑の鉱石を積んだ鉱車を空ける、チップラー場を兼ねていた。
元山側は、元山製錬所の破砕場の最上部で、搬器で運ばれた鉱石は直ちに貯鉱舎に取り込まれた。昭和16年の運搬量は40万トンで、一日当たり約1,300トンになる。索道の能力からみて時間をオーバーして稼動したようで、索道近くの住人は夜半近くまで搬器の車輪の音に悩まされた事と思う。

「三王~倶知安内索道」
 昭和10年12月に完成し、休山まで三王坑の鉱石を運搬した。
索道は単線式で、設計運搬能力は300トン/日、地図上の延長は約4.7kmである。起点の三王坑の積込み場は三王通洞の坑口付近で、上モベツのクチアンナイ沢の上流1.5km付近である。終点は先に書いた倶知安内の索道場で、元山向け索道の積込み場の、上の階であった。索道の路線は、二号坑と五号坑の山を越し、五号坑々口の真上を通過していた。


10) 「鉱滓処理の沈澱池」
 鴻之舞鉱山には鉱滓を溜める沈澱地が、第一から第九、扞止堤、末広と、11ケ所設けられた。
鉱滓は鉱石をすり潰し、金銀を取出した後のカスだが、金銀は微量だから鉱滓は掘り出した鉱石の重量とほとんど変りなく、磨り潰して水で流すので量は増す。製錬所の操業には鉱滓の処理が絶対に不可欠で、わずかでも鉱滓の処理が行き詰まると、直ちに製錬所の操業に影響が出る重要な施設と言える。
沈澱池に溜められた鉱滓は泥水状で固まり難く、不慮の事故で堤防が決壊するとモベツ川に流出し、大きな被害を起こす。昭和10年の流出事故では鉱滓は19km下流のオホーツク海に達し、深刻な漁業被害を起した。最終的にモベツ川河口一帯の、漁業権を買収して解決した事をみても、鉱滓の処理には苦労があったようである。
鉱滓は木樋で流されたが、木樋は元山製錬所からモベツ川の対岸に渡り、中学校を建てた第二沈澱池を過ぎて山腹を這い、五号坑々口近くの第三沈澱池を経て、最後は栄町下手の第九沈澱池まで敷設され、全長はおよそ3.5kmにもなる。
沈澱池は、鉱滓の放流と沈澱を繰り返し、満杯となった時は土砂を盛って更地にし、様々な施設に利用された。各沈澱池の位置と、跡地の利用状態を簡単に記してみる。

「第一沈澱池」
神社参道脇から労働組合裏の、堤防上の平地と言えば、鉱山に住んだ人なら思い当たると思う。跡地は総合グランドとして使われ、後に鴻紋軌道の機関庫や元山駅が置かれ、再開後は住吉坑第四通洞のズリ捨場に利用した。一番最初のこの沈澱池の排泥には、金銀の残留が多いのが分り、再製錬をして回収したと聞いた。

「第二沈澱池」
元町と住吉町の、モベツ川対岸に堤防を築いて造られた。跡地には中学校が建ち、総合グランド、それに野球場が造られた。鴻之舞に居住した人には、思い出の有る場所と思う。

「第三・第四・第五沈澱池」
この一連の沈澱池は、末広町と栄町のモベツ川対岸に堤防を築いて造られた。、
第三沈澱池は、倶知安内製錬所下の平地で、再開後に総合事務所と工作所・採鉱事務所などが建てられた。多くの社員が通勤した場所である。第四沈澱池跡は、五号坑の坑口下に有って、休山前は朝鮮人労働者の住宅や寮が建てられ、再開後は貯木場に利用された。鴻紋軌道の末広駅が置かれ、第四・第五沈澱池の埋立て跡に線路が敷設された。第五沈澱池は、栄町はずれのガンケ(崖)の下で、昭和40年代の自家用車ブームで、私設の自動車練習場が設けられた。

「第六ー第九沈澱池」
紋別側から鴻之舞に入ると、右側に山肌をむき出しにした砕石現場が見えてくる。その左側には高い堤防が長く続くが、この堤防の内側が第六ー第九沈澱池である。この沈澱池は金山の再開後、扞止堤沈澱池が使われる昭和28年(1953)まで、主要沈澱池として使用されていた。
第九沈澱池は、昭和47年(1972)の大雨で堤防の一部が決壊したが、幸いに廃泥の流出はなく無事に済んだが、隣接する第八・第七沈澱池の堤防からも鉱滓が滲み出しているのを見て、堤防の脆さと保守の難しさ、それに関わる人の苦労をしみじみ感じた。

「扞止堤沈澱池」
クオノマイ沢の入口から700mの位置に堤防が築かれた、巨大沈澱池である。堤防は沢を堰き止める形の、水力発電所のダムに似た構造である。
鴻之舞の平地に沈澱池を造る場所が無くなり、計画されたと思うが実に壮大な沈澱池を考えだしたものである。
計画では、堤長が333m、堤防の底の厚さは345m、高さが93m、堤内容量は780万立方メートル、乾容量995万トンである。(安田 旺氏論文より)この容量がどれほどの量か調べると、大正6年(1917)の開山から昭和41年(1966)までに採掘した鉱石が、約1千万トンというから重量ではほ匹敵する。約50年間に採掘し、処理した量と同じ量の鉱滓が溜められる沈澱池である。
昭和14年(1939)に着工し、昭和18年(1943)までに堤高63米、容積160万立方メートルの沈澱池を作り上げたが、休山で工事は中断された。
休山中に未使用の扞止堤を、山菜採りに行って見たが、沢に入ると間もなく壁のようにそそり立つ堤体が現れる、堤体には排水の大きなコンクリートの暗渠が見える。堤体の造りは石混じりの土手だが、ガッチリと固められて硬く締まった感じであった。堤体横の道を登り内側に降りると、中央に溜水を流すコンクリートの塔がそそり立ち、その巨大さに異様な圧迫感を受けたのを覚えている。
 昭和28年(1953)に使用を始めてから7年後の、昭和35(1960)年に再度見たときには、あの深かった堤防内はすっかり鉱滓で埋まり、巨大だった塔もわずかに水面から出ているだけで、あまりの変わりように驚いた覚えがある。高い堤防もかさ上げに追われている感じであった。
使用始めてから48年(1973)の閉山まで、約20年間使用して終わっているが、どれだけの鉱滓が溜められたのか、地形図で調べてみた。
国土地理院の最近の地形図では沈澱池の標高は244mで、計画時の最高堤体高253mとあるので、貯泥の高さは84mになる。この数字が正しければ計画高さ93mに対して、あと9mの余裕を残して使い終ったことになる。
鴻之舞金山の閉山は、鉱石の品位が低下して採算が取れなくなった事が原因だが、製錬所の廃泥処理の面からも、扞止堤沈澱池が満杯になった時に次の沈澱池を造る場所が無ければ、こちらの面からも閉山の事態が有り得たとも考えられる。いずれにしても鉱山の寿命には限りの有ると言えるように思う。
休山前の扞止堤沈澱池の工事で、タコ労働が有ったように聞いた覚えがある。労働に耐えられずに脱走した者を、軍用犬を使って山狩りをしていると、大人が噂をしていたのを聞いたように思う。その結末は知らないが、たとえ山中に逃げ込んだとしても、あの奥深い山ではとうてい逃げ切れるわけがなく、末路は哀れであったろうと思う。
のちに聞いた事だが、扞止堤の土木工事は本社の直轄で、鴻之舞鉱山は関与していないと聞いた。だがこのタコ労働の話が、朝鮮人労務者の事と誤解されて伝えられ、昔の鴻之舞のイメージを悪くしているのが、残念でならない。

「末広沈澱池」
昭和40年に末広社宅跡に築かれた。道路沿いの比較的小規模な沈澱池である。現在は土砂が鉱滓の上に盛られて潅木と草が生え、沈澱池跡とはとても思えない風景になっている。


11) 「鉱山の暮らし」
 鴻之舞が鉱山という閉塞した場所にあって、社員は揺りかごから墓場までのたとえの通り、鉱山が用意した住宅に住み、あらゆる施設すべてを会社に依存した環境では、一部に一般の社会環境と異なるところがあったとしても、止むを得ないものがあると思う。
戦前に作られた鉱山歌に「理想の楽土ここにあり」と謳っているが、歌詞のままには受け取れないにしても、健康で働ける限り、安心安楽な所であったに違いない。
再開後は、社宅や電気など、一部の施設が有料になるなど変化はあったが、労働組合の活動で賃金水準の向上と共に、社宅や水道設備の改善、冬季燃料の支給、労働環境の改善など、生活水準は確実に向上していった。このような生活環境と行事など、思いつくままに記憶をたどって書き記してみる。

「居住地の町名」
 筆者が子供の頃は、居住地の町名が異なっていた、昭和11年に町名を改めている。参考までに旧町名と対照させながら、モベツ川の上流から下へ順に書いてみる。
鉱山の地域外だが 一号を昭和区、鉱山の地内で金竜を金竜町、川向(かわむかい)を旭町、喜楽を喜楽町、市街を元町、役宅を住吉町、五号を末広町、栄町とした。
その後社宅が増築され、金竜町の上手に泉町、上モベツ地内に桜町と曙町と、3ヶ所町名が増えている。昭和17年(1942)頃が鴻之舞の全盛期で、泉町から栄町まで5kmの間に家屋が建ち並び、飛び地で上モベツの桜町まで3km、さらに曙町まで1.5kmあった。合計すると泉町から曙町まで9.5kmもの距離になる。曙町は上モベツ小学校のすぐ間近であったが、桜町の学童と共に鴻紋軌道で鴻之舞に通学した。
再開後の鴻之舞は、金竜町から栄町の範囲内が居住地で、距離は4.5kmである。

(註)旧町名について
一号は、開拓地の区画割がこの地から上流へ、一号地・二号地と区画された事によるようだ
川向は、早くから開けた喜楽から見てモベツ川の向かい側なので、「川向」と称したのではないか
市街は、商店が集まり、市街地を形成していた
役宅は、役付きの職員が住んだ所から付いたと思う
五号は、五号坑に働く人の社宅街なので、地名に使われたのでないか

「社宅と居住地」
 社宅は、鉱山の職制が反映されて、一般従業員と管理する職員、職員も平職員と役付職員に区別され、入居する社宅は異なっていた。
一般従業員の社宅は、八戸建長屋と二戸建の二種類で、二戸建になるのは昭和14年か15年頃と思う。八戸建長屋の一戸の広さは10.5坪で、六畳八畳の二部屋に狭い玄関と台所に、別棟の物置が付いていた。
二戸建は、六畳六畳に四畳半の3部屋と玄関と台所に物置が付く、建坪は13.5坪であった。いずれも造りは粗末であったが、特に八戸建は、隣り合わせの居間が薄板の仕切りだけで、話が筒抜けでプライバシーなど無いに等しかった。
だが昔の長屋建ての家は、これが普通だったのかもしれない。昭和30年頃に、山形の小さな炭鉱で見た長屋は、それどころか各戸が土間続きで玄関がなく、プライバシーなど本当に無いようで、鴻之舞の社宅と比較して驚いた事がある。
平職員の社宅は26坪の広さで、六畳八畳六畳の3部屋に縁側が付き、玄関に台所と物置が付いて、一般従業員の社宅から見ると、格段に良くなっている。こうした職制による社宅の違いは、社宅を支給する企業では同様であったかと思う。鴻之舞では、社宅の格差は当然の事と受け止められていたように思う。
戦前には社宅ばかりでなく、居住地も職員は住吉町に、従業員は他の町と分れていた。また住友以外の人は、従業員の居住地とは違う区画に住んでいた。社宅の建設地を優先した結果かも知れないが、金竜町の一部と商店街、喜楽町の一部と商店街、元町の商店街、栄町のはずれと、居住地ははっきりと区別されていた。
他に朝鮮人だけの居住地があったが、五号坑の坑口に近い第四沈澱地の跡地には、妻帯者の住宅と独身者の寮が建てられ、泉町の沢の奥には寮があった、双方共に不便な場所だが、敷地の限られた鴻之舞では、仕方のない事だったに違いない。

「生活に必要な設備」
 戦前の鴻之舞は、生活に必要な設備は鉱山がすべて自前で造り、公営の施設は無かった。学校・販売所・消防・病院・集会場・火葬場・社宅・水道・電気すべてである。どの設備も充実していたように思う。病院は充実した診療科目に、二階建ての入院病棟と隔離病棟を持ち、暖房はボイラーで、坑内作業者のために紫外線照射設備が設けられていた。
直営の販売所は、再開後には旭町・中央と末広の3箇所だったが、休山前は泉町と桜町が加わり5箇所であった。主食の他に生活に必要な物資はすべてが揃い、中央販売所などは小型のデパート並みの感じであった。他に個人商店が金竜町・喜楽町・元町に軒を連ね、様々な商品が販売されて賑わっていた。
社宅・水道・電気料金については、再開後は電気容量の増加希望や、水道栓の屋内配管などから、低額だが有料に変っている。だが再開後に、新たに暖房用の石炭が支給されるようになり、すべてについて生活環境は悪くなかったと思う。


「世話所」
 会社の組織として、住民の世話をするために昭和11年(1936)に世話所が設置された。再開後は旭町・住吉町・末広町の3ヶ所であったが、休山前は居住地の範囲が広かったので、もっと数が多かったに違いない。
住民にとって世話所は、会社との窓口であり、また相談所でもあった。会社の施設を使う場合に限らず、どのような事でも届け出て、相談をしてから物事を始めた。慶び事や葬儀は当然で、社宅の修理から便所の汲み取りまで、なんでも世話所を通して依頼した。
鴻之舞以外では考えられない事で、転勤で他の地に住んでみて、鴻之舞が特殊な地であった事を知った。
このように、住民にとって密接で便利な世話所も、無断欠勤をすると社宅に調べに来た、などと噂さされたが、普段接する世話所の係員は親切で、時には個人的な相談まで持ちかけて、頼りにした人が多かったようである。

「治安」
終戦まで、鉱山には自前の警備組織があって、治安だけでなく消防も兼ねて常駐していた。警備員は施設の巡回ばかりでなく、社宅街も巡回していて、鴻之舞では夜の戸締りをしない人が多かった。このように治安が良く安心なのは、警備の人達のお陰だったと思う。警備の人達は動きがキビキビとして、頼りになりそうな感じであった。
警察官も2人か3人駐在していたが、最盛期に人口が1万3千人以上と言われた鴻之舞では、警備員が居なければ手薄すだったと思う。鉱山の中心地の警備本部のほかに、社宅街のはずれに二箇所に常駐の見張所が置かれ、鉱山に出入りする人をチェックしたと言われた。鴻之舞を抜け出て、昭和区の歓楽街に通う人には少々煙たい存在だったと思う。
このように書くと、いかにも締付けが厳しく窮屈に見えるが、善良な住民には害がなく頼れる存在であった。戦後消防は市に移管され、警備組織は無くなったが、治安の良さは変らず安心して住める所だった。

「除雪と寒さ」
 鴻之舞を離れて、はじめて鴻之舞の雪の多さと、寒さが厳しかった事を知った。毎年10月の末には山々が雪で白くなり、12月には根雪になり、翌春の4月まで雪に囲まれた生活が始まる。2月から3月にかけては吹雪の日が多く、除雪した雪で箱のようになっている通路は、吹き溜まりの雪ですぐに埋まり、翌朝のために夜中に除雪をする事がしばしばあった。時には降り積もった雪で玄関から出られず、居間の窓から除雪に出ることが有ったほどで、ともかく雪が多かった。4月にも大雪が降ったり、5月のメーデーに小雪が降るのも珍しい事ではなかった。
休山中には大雪のたびに、住民が総出で道路を除雪したが、戦後に改造戦車が除雪をするようになってから開放された。改造戦車は、速度が遅いと力が出ないと聞いたが、除雪の際は本当に早い速度で走り、運転技術に感心したものである。
ブルドーザーが除雪するようになったのは、昭和24年頃と思う。住宅地の横道も除雪してくれて大いに助かったが、出入りの通路に残された雪は、スコップが立たないほどに固く締まり、道を開けるのに苦労した。
雪の多さと共に寒さも厳しかった。マイナス20度を下回る日が、ひと冬に何度もあって、出勤には厚いコートで寒さを防ぎ、吸う息の冷たさに顔を覆いながら歩いた。このような日は、学童の登校時間は1時間繰り下げられるのが常であった。


12) 「鴻紋軌道」
 戦時中の鉱山は、相次ぐ拡張で大量に必要とした資材と、1万3千人を超す住人の生活物資の運搬に、鴻之舞ー紋別間28kmに軽便鉄道が建設された。昭和15年に着工し18年6月に完成したが、この時すでに休山が決まった後で、活躍の場は皮肉にも、他の鉱山に転用するために解体した機械類の搬出であった。
前年中の完成予定が延びたのは、元紋別の大きな沢の埋立てが難工事で遅れ、鴻之舞から廃石を大量に運搬したためだったと、当時機関士をされた宮野 博氏が語っている。
軌道の設備は機関車が4輌で、内3輌は煙突が玉葱のような特徴のある形をしていた。有蓋・無蓋の貨車の他に、客車と除雪のラッセル車まで備え、小型ではあるが立派な鉄道であった。
旧元山製錬所近くの総合運動場跡に元山駅が置かれ、軌道の基地として機関庫と事務所があった。
軌道には4箇所の駅と10箇所の停留所が設けられ、鴻之舞側から元山駅・元町・住吉・末広駅・桜町駅・曙・長島・中モベツ・野中・木原・草鹿・銅山・紋別駅の順番であった。紋別駅は国鉄の紋別駅に近く、引込み線が引かれて、国鉄の貨車から軌道の貨車に、貨物を直接積み替えできた。
軌道は、掘割と盛土で築かれトンネルは無かった。鉄橋は、モベツ川を横断する長いものは6箇所あった。他に狭い沢に架かる小さな鉄橋が多数あるが数は確認していない。
列車の運行は休山中は夏季に限られ、積雪のある冬場は運休するので、紋別に出るときは馬橇に頼るか歩くしかなかった。紋別までは28kmの距離で、歩いてでは1日コースになる。いかに冬場の鴻之舞が孤絶していたかが分ると思う。
 敗戦後鴻之舞金山の自立を求められ、高品位の金鉱石を銅精錬の珪酸鉱として生産し、紋別までの運搬に鴻紋軌道が使われた。冬季に大雪でラッセル車が立往生すると、坑外勤務の社員に出動の指令が出る。鴻紋軌道の運行は鉱山の生命線で、一日も早く開通させる必要があった。汽車で運ばれ除雪を始めるが、掘割りや吹き溜まりなどでは、2m以上もの雪をスコップで掘らねばならなかった。除雪するのは中モベツ付近までで、そこからはラッセル車や保線の人が除雪に当たった。除雪は一日で終わらぬ事もあったが、天気の良い日は気分が良く、あまり苦労とは思わなかった。ラッセル車は小型で軽量のために、深い雪や固い雪になると、押されて浮き上がり脱線しやすかったと、軌道に勤めた義兄に聞いた覚えがある。
当時は、汽車で紋別に出るのが何よりの楽しみで、ウキウキした気分で出かけたものであった。汽車が元紋別を過ぎて、紋別に近づくと丘と丘の合間から海が見えるが、この時受ける開放感は今も忘れられない。
この頃は機関車の運転士さんがカッコよく見え、皆のあこがれの的でススだらけの姿がなお立派に見えた。実際に運転に携わっている人達は、夏の暑さと冬の寒気で大変な労働だったようだか、今になると微笑ましく当時が懐かしい。
 軌道の路線は、紋別ー鴻之舞間の道路に添ったり、少し離れたりしているが、運行していた当時は道路からはっきりと見えていた。だが廃線から半世紀を過ぎた今は、盛り土は崩れて草木が茂り、掘割りは木が茂って、今は何れも分り難くなった。
軌道には大きな鉄橋が6箇所あった。その中で末広鉄橋の橋脚と、栄町はずれの崖際の橋脚は、通行中の車からも見えるが、上モベツの桜橋と中モベツの万世橋近くの橋脚は、木陰に隠れて車を降りなければ視認が難しい。他の元紋別の2箇所の鉄橋は、橋の架け替えと道路の改良工事で消滅したようである。
軌道跡が道路に変わっている場所が1箇所ある。中モベツの万世橋から鴻之舞に進むと、尾根を堀割った場所があるが、この掘割りが鴻紋軌道跡で、道路の改良工事で拡幅し掘下げて道路になった。旧道は尾根の鼻先を急なカーブで曲がり、滝のそばを通っていた。
この他に紋別市内で、軌道跡が道路に変わったと、2万5千分の1の地図上で推定できる場所がある。軌道の紋別駅が置かれた花園町1丁目から、緑町と大山町1丁目を経て南が丘8丁目に至る約2.3kmの区間である。大山町から先は道路は方向を変え、その先の軌道跡は、地図上に路線跡として記号で残されているのでほぼ間違いないと思う。
確認のためにいちど車で通ってみたが普通の道路で、軌道跡と思わせるものは何もないが、道路の曲線と直線のつながりが緩やかで、通常の道路とは何か違うものを感じさせた。

(註) 鴻紋軌道に似た軽便鉄道が、丸瀬布町の森林公園に動態保存されている。


13) 「越冬米と食糧危機」
休山中の鴻之舞では、冬季間の主食を越冬米として、光風殿を倉庫代わりに貯蔵した時期があった。
その頃は日本中が食糧難の時期で、充分な量を貯蔵出来たわけがなく、越冬期間中に確実に不足する事が分っていても、不足分の追加は難しかったようである。
貯蔵した主食が少なくなると、配給は遅配と欠配が続き、数日間分ずつに小分けされるようになる。住民は光風殿の越冬米があと何日分持つのか、米の入る見通しはどうだと、口伝えてに聞いて心配をしたものだった。
現在では考えられない事だが、昭和21年(1946)頃の食糧不足は、冬ばかりでなく年中続いていた。主食の代用に配給されるのが麦なら高級な方で、アメリカ軍が放出した玉蜀黍の引き割りや、大豆を押しつぶしたものも配給されて、食べた記憶がある。
 この辺の事情を「住友鴻之舞金山史」は次のように伝えている。
『昭和21年初頭に来襲した40数日間の欠配という未曾有の食糧危機には、遠く網走市街から3里の嘉多山集落から購入した、燕麦(えんばく)700俵によって辛うじて飢餓を免れる事ができた。・・・・』云々と。
燕麦は、通常農耕馬の飼料にするが、鉱山の施設で脱穀精製し、食料として社員に配給して危機を乗り切ったのだ。
嘉多山集落には、その後鉱山の手で電化工事を実施して恩義に報いるなど、緊密な関係が結ばれたようである。
しかし、これらの配給品も充分でなく、不足分は農家に買出しに行くか、畠で作るしかなかった。鴻之舞の空き地はすべて農地にし、なお上モベツの社宅の跡や、会社が借りた中島地区の農地など、すべて社員に均等に配分し、食料になるものは何でも作り、不足分を補おうと必死であった。当時の食糧危機を思い返すと、2度とない事を願い、今の満ち足りた豊かさが、かえって不安に思う時がある。
 あまりの食糧難にたまりかねて、昭和22年6月(1951)に全山決議で、総勢300人が紋別町に「米よこせデモ」をかけている。鴻紋軌道とトラックで大挙して押しかけたが、紋別町にも蓄えがあるわけが無く無駄足であったが、松田漁業社長の松田鉄蔵氏が、全員に鱈を一匹ずつ土産に持たせてくれ、皆は立派な人だと感激した。その後、松田氏は衆議院に立候補して何期か当選を続けたが、きっと鴻之舞は良い地盤であったに違いない。


14) 「大山火事のこと」
 昭和23年(1948)5月21日の昼頃に、山火事が発生した。鉱山の再開準備で製錬所の基礎を測量していて、裏山の六号坑方面から煙が立ち昇るのが見えた。
春先の乾燥期の山火事は大火になる事が多く、すぐに付近の社員で消火斑が編成され、筆者も現場に向った一人だが、すでに火は燃え広がって木から木へと猛烈な勢いで燃え移り、とても近寄れる状態ではなかった。対策に火防線を作る事にしたが、ほどなく火は後方の八号坑の山に飛び火し、製錬所の裏山からも何箇所か煙が上りだす始末で、身の危険を感じて全員が撤退した。
五号坑の坑口から製錬所跡に延びる、山際の輸車路を守るために駆けつけたが、山の斜面でボヤのように煙が立っている程度なのに、燃えかけの木屑が転げ落ちてきては煙を上げ始める。燃え移らないように木切れを取り除き、建物に火が移るのを防ぐ事しか方法はなかった。山火事の恐ろしさは聞いていたが、聞きしに勝る怖さと感じた。
 山火事になると強い風が起き、風に乗って火が広がると言うが本当の事であった。八号坑の山から強い炎で焼けた笹が舞い上がり、風に乗って鴻之舞の谷間を越え、1kmも離れた向い側の住吉町の裏山で燃え上がるのが見えた。
も早手の付けようがなく燃えるに任すしかない状態で、この後どうなるのかと不安が増すばかりであった。この頃になると、鴻之舞の谷間一帯が煙に覆われ、社宅への延焼も時間の問題だと考えられ、一部では子供や老人などを、バスで上鴻之舞に避難させたように聞いている。末広町や住吉町の周辺の山々は各所で煙が立ち上り、すっかり火に囲まれた感じで、これで鴻之舞も全滅するのかと思わすほどであった。
この時期の鉱山は、製錬所の起工式を6月に控え、再開の喜びに満ちていた頃であった。万一にもこの山火事で、鉱山に残された住宅や施設に重大な被害があったとすれば、多分起工式は延期になり、再開の時期はかなり遅れたのでないかと思う。全部の施設が無事で、被害が無かったのは天の助けとしか考えられない。
さすがの山火事も夕刻になると、風が弱まり火の勢いも衰えて、ようやく人々は落ち着きを取り戻した。夜中に山の所々で残り火を見たが、もはや心配は無かった。山火事の原因は、畑仕事の火の不始末でないかと言われたが、結局は不明のままに終わったように思う。

 
15) いろいろな行事
「正月・年越し」
 正月と言うと一番印象にあるのが大晦日の夜、神社参拝に行き来する人が、雪を踏みしめて「キュッ、キュッ」と鳴らす下駄や靴の音である。寒気の強い夜ほど高い音を出す、この音を聞くと年を越したのを実感したように思う。
正月は、暮れの25日頃に餅を搗く事から始まる。家族全員で餅米を蒸し、臼で搗き、餡を入れたりのし餅にし、仕上げは外の寒気にさらして凍らせ「シバレ餅」にできれば完全だった。シバレ餅は乾かずに保存でき、ストーブで焼かなくても、暖めるだけでよい餅になった。子供の頃は、毎日餅を食べられるのが嬉しく、正月が待ち遠しかった。
会社の勤務は、暮れの30日か31日が仕事納めで、午前中で仕事を切り上げ、器具の手入れと部屋の掃除を済ますと、お神酒を頂きながら歓談し、一年の締め括りをした。
またこの日は神主と会社の幹部が、主要な工場と坑口を御祓いをして廻る。勧められて元山坑口の御祓いに参加したが、ただでさえ寒いこの季節に、坑内に吸い込まれる風でいっそう寒気増し、実に寒い思いをした。他の坑口も同じように寒いはずで、御祓いを続ける幹部をこの日ばかりは気の毒に感じた。
 元日の山神社参拝は、除夜の鐘を待って参拝する人、夜が明けてからの人と、様々であった。山神社は鴻之舞のほぼ中央に位置して、上手の金竜町と下手の末広町、いずれからも約2kmの距離にある。神社は山の中腹にあって、参道の終わりは険しいコンクリートの階段であった。参拝の帰りは急な階段を避け、横手の少し緩やかな忠魂碑の前に出る道を下っていた。
元旦の会社の行事に、恩栄館で年始の交換会が行なわれたが、交換会の後は親しい家を訪問する人、上司の家を訪れる人など様々であった。鴻之舞には飲食店が無いので、集まって飲食するには個人の家に行くか、倶楽部などに集まるしかなかった。
正月の娯楽は映画だけが楽しみで、2日と3日の両日に昼夜2回上映され、雪や寒さに関係なく多くの人が観覧して楽しんだ。
正月休みが明けると、百人一首の下の句カルタ大会が始まる。週末になると倶楽部の大広間で、気の合う同士がチームを組んで優劣を競い、明け方近くまで読み手の声と掛け声で、賑やかだった。

「スキー大会とスキー遠足」
再開後のスキー場は、清明寮の向い山と金竜町の2箇所で、どちらのスキー場も夜間照明が設備され、勤めの後でも楽しめた。
スキー大会は、寒さがいくらか緩む3月初めに開かれ、スキー競技の他に徒歩でも参加できるミカン拾いなどがあって、スキーの出来ない人も楽しんだ。昼食には豚汁のサービスも有ったりと、楽しい一日であった。
他に、健康保険組合のスキー遠足もあった。昔の遠軽道路を行くコースで、元山坑の露頭を越え奥社名淵まで、片道8粁の道のりであった。目的地のスキー場は村川さんの農地で、子供でも楽しめる緩やかな斜面である。帰りの道は、元山露頭から3km続く下り坂を一気に滑り降りるのが爽快で、疲れるが楽しいスキー遠足であった。

「祭りと、お盆の行事」
鴻之舞では山神祭を、8月の盆の日に合わせて行っていた。昔からの事で不思議とは思わなかったが、他の地から来た人には奇妙な感じがしたに違いない。
仏壇で先祖の供養をしながら、軒先には祭りの花飾りを挿し、神社に参詣して子供神輿に付き合ったりする。何時から続いた事か知らないが、おそらく鴻之舞だけの習慣と思う。
催しものには素人相撲や映画があって、まれに劇団が興行する事もあった。盆踊りと花火は恒例行事で、花火は映画が終ると打ち揚げが始まるが、花火の打ち上げの間隔が空き過ぎて、もう終わりかと思った頃に「パーン」と揚がる間延びした感じの、打ち上げの数も少ない花火であった。
盆踊りは、小学校の校庭にヤグラを組んで行われた。昭和30年代まではたくさんの人が輪を作って踊り、ヤグラの上ではのど自慢の人が声を張り上げて唄い、夜遅くまで賑やかだったが、テレビが普及するにつれ、しだいに子供とわずかな大人が踊るだけの淋しい盆踊りになった。

「娯楽」
 昭和12年(1937)に、劇場と映画の設備を備えた「恩栄館」が建設された。収容人員は2千5百人以上と言われた大集会場である。一階と二階の座席は6人掛けの木製長椅子で、二階に畳敷きの横見席があった。
冬季は館内が広いうえに、床がコンクリートで冷えて寒かった、初めはスチーム暖房だったが、のちに大きな薪ストーブを4ヶ所据えてドンドン燃やしたが、館内はなかなか暖まらなかった。
休山前の最盛期に人口が1万3千人と言われた頃は、映画・劇団・素人演芸が上演されるごとに、廊下が立ち見する人で埋まるほどに盛況で、多くの人が集まった。ことに映画が一番の娯楽で、ほとんど毎週上映されていた。
テレビが普及するのは昭和36年頃で遅かったと思う。山間の鴻之舞では映らないものと半ば諦めていたが、有線ケーブルが敷かれると普及は早く、爆発的な勢いで家庭に広まった。公民館でテレビの展示販売をしたが、月賦の買いやすさも手伝い、新型・旧型にかかわらず飛ぶような売れ行きで、機種によっては在庫が不足して日本中からかき集めた、などと噂された。
スポーツも盛んで、総合グランドと野球場、それにプールまで戦前から備えられていた。相撲の土俵は、神社の他に各町にもあって祭りには大人や子供相撲で賑わっていた。
野球は、鉱山を代表するチームがあって、戦前から強豪だったと聞いたが、戦後はさらに盛んになった。鉱山内での職場対抗試合などが、春と秋にさかんに行われて、多くの人が参加し楽しんだ。屋内スポーツのために、昭和15年(1940)に柔道・剣道・弓道の道場に光風殿(註)が建てられている。
夏の全山運動会は、町内対抗に職場対抗と、足自慢・力自慢の人たちが競いあい、応援合戦もにぎやかで、鴻之舞ならではの和やかさがあったように思う。寒く長い冬も、照明された夜間スキーが2箇所設備されて、昼夜を問わずスキーが楽しめた。スキー大会、スキー遠足などの楽しみもあって、寒く辛い事ばかりではなかった。
1万3千人の人口が住み、栄え賑わった鴻之舞に、歓楽街が無かったと聞いても、居住した事のない人は信じられないと思うが、戦前はもちもん戦後のある時期まで、飲食店さえ鉱山の地域にはなかった。
再開後元町に、小部屋のある飲食店が出来て一時賑わったが、すぐに飽きられて長くは続かなかった。飲食店は無かったが、職場単位で倶楽部に集まり、春は花見、秋は観楓会を口実にして、よく飲んでいたように思う。

(註)光風殿は、閉山後に紋別市に寄贈されて移築され、現存している。


16) 「 製 錬 所 」
 鴻之舞金山の製錬所について書いてみるが、坑内関係とは違い経験・知識ともに乏しく、適任でない事は自分が一番承知している。
だが鴻之舞の金銀製錬が、ボイラー跡を溶鉱炉と思い、溶鉱炉で精錬したと勘違いする人がいるのを知り、靑化法の湿式製錬であった事を知らせたいとの思いから、知り得た限りの事を文章化したが、不十分な点はどうかご容赦願いたい。
 筆者には、製錬所を覗き見した程度のわずかの見聞と「安田 汪・森口 義道」両製錬課長の論文(註 1)の助けを借りながら進める事にする。
 製錬所の歴史を読むと、初期の大正6年(1916)元山露頭に混汞(コンコウ)法(*註2)による製錬所を建設したが、大正13年(1924)に焼失した。昭和2年(1927)鴻之舞の地に靑化法(*註3)を用いる元山製錬所を建設し、以後の製錬は全泥式靑化法に統一している。
元山製錬所は、日量96トン/日処理から始まり、昭和8年(1933)に750トン、11年(1936)には1200トン、さらに増設を重ねて17年には2,000トン/日の規模に達した。
昭和12年(1937)以降は戦時体制のもと、政府の強い要請で拡張を重ね、昭和17年(1942)には、倶知安内側に1,000トン/日処理の新製錬所を建設、元山製錬所の拡張と合わせて日量3,000トン処理の体制になったが、昭和18年(1943)の金山整備令で一転して休山になり、全施設を解体し他鉱山に設備を転用した。
 戦後の昭和24年(1949)に日量400トン処理の製錬所を再建、26年(1951)には600トン、27年には1000トンと増設を重ね、30年(1955)には日量1,350トンにまで拡張した。
しかし38年以降は、鉱量の枯渇と品位の低下から縮小に入り、40年(1965)に710トン処理、42年(1967)660トン、46年(1971)220トン、48年(1973)5月ついに閉山になり製錬所を解体した。
 当ホームページに「採掘から精金の工程」として、鴻之舞金山のパンフレット「操業系統図」が転載されてあり、製錬工程が分りやすく紹介されている。この後の文章は、この系統図の流れに添って行くので参照を願いたい。
 製錬所の工程は、破砕場で鉱石を砕き、磨鉱場で薬液を加えながら磨(す)り潰し、靑化場で溶解し、溶解液を濾過して金銀等を含む澱物として回収する所までで、澱物は精金工場に送られて金銀の合金に精錬される。この合金は四国の新居浜市に送られ、電気分解されて純金・純銀に精錬される。
製錬所をかいま見た時の思い出にあるのは、精密な化学工場に近い印象である。鉱石に含まれている金は、百万分の5グラムから8グラムと微量なもので、この微量な金をいかに効率よく回収出来るかは、製錬技術次第だったようである。
採掘されて送り込まれる鉱石は、鉱床によって質がみな違い、鉱石の粉砕、金銀の回収には様々な苦労があったようである。

註 1 鴻之舞製錬所の金銀靑化製錬  昭和31年 日本鉱業会誌に発表
     鴻之舞鉱業所副所長兼製錬課長  安田 汪

   鴻之舞鉱業所の金銀靑化製錬  昭和42年 日本鉱業会誌に発表
     鴻之舞鉱業所製錬課長      森口 義道        

註 2 混汞法とは、鉱石中の金銀を、水銀を使って化合物にして、のちに水銀を蒸発させて取り出す、比較的簡便な製錬法

註 3 靑化法とは、シアン化合物(青酸カリ)の水溶液と、酸素と金を反応させて金を溶かし、その溶液に亜鉛を入て金を析出させた

「元山製錬所」
 元山製錬所については休山前のことなので、書ける事はほとんど無い。小学生の頃、第一沈殿池跡のグランドで運動会をしている時に、近くのバキュームポンプ(真空ポンプ)が大きな音でやかましく、拡声器の声が聞き取りにくかった事を、ぼんやりと思い出す。
当ホームページの鉱山の写真記録に、「元山製錬所」の項があるので、合わせてご覧頂きたい。なお内部の機械施設は、「倶知安内製錬所」とほぼ同じと考えられるので、そちらの写真をご覧頂きたい。
製錬所は9回もの増設を経て、日量2,000トン処理の規模に達しただけに、破砕と磨鉱が2系統、靑化場が三棟に分かれ、複雑に工場が建てられている。
製錬所の広さを記したものが無いので、施設の基礎跡を地図で調べてみた。
基礎の①は、辺の長さが75m × 100mで7,500㎡、基礎の②は、55m × 75mで4,125㎡、基礎の③は、130m × 95mで12,350㎡、中には製錬所以外の施設も含まれていると思うが、合計すると23,975㎡で約7,265坪になる。
元山製錬所跡で現存する建造物は、崩れかけた製錬ボイラーと発電所跡の建物、それにボイラーの巨大煙突だけである。

「倶知安内製錬所」
昭和16年(1941)に建設された日量1,000トンの倶知安内製錬所は、18年(1943)の休山で解体された。昭和24年(1949)に日量400トンで再建され、その後3回の増設で、昭和30年(1955)に1,350トンの規模まで拡張されたが、38年より何度かの縮小で、46年には日量220トンに縮小され、48年に閉山で解体された。
当ホームページの写真の中には、製錬所の外観が見られる写真も有るのでご覧頂きたい。内部の機械設備については、「鉱山の写真記録」の中の「倶知安内製錬所」の項をご参照願いたい。
製錬所は山の斜面を利用して建てられ、破砕場・磨鉱場・靑化場の三棟に分れていた。製錬所の広さの記録は無いが、鉱山の地形図から読み取ると、破砕場は30m ×40mで1,200㎡、磨鉱場は75m × 37mで2.775㎡、靑化場は90m × 60で5,400㎡で、合計の面積は5,400㎡約1,630坪でなる。
最初は、坑内から搬出された鉱石は、チップラー室から傾斜コンベヤで破砕場に取り入れたが、昭和33年(1958)の運搬合理化で、坑内に一次クラッシャが設置され、120ミリ以下に破砕してから、別ルートのベルトコンベヤで搬入されるように変っている。

「破 砕 場」
 鉱石を破砕するこの工場は、振動とすさまじい騒音を出しながら運転していた。周囲には多くの工場があったが、破砕場が運転を停止すると、一瞬静まり返って周囲がシーンとした感じになる程だった。破砕場には手選の工程があって、木屑などの異物を排除していた。
鉱山の事業案内では、破砕場を次のように紹介している。
 坑内で120mm以下に粗砕した鉱石をベルトコンベアーで受入れ、グリズリーで粉塊鉱に大別し、塊鉱はブレーキクラッシャーで75mm以下に粗砕し、次に中砕のコーンクラッシャーで砕く。鉱石は更に細砕のコーンクラッシャーで砕き、スクリーンと閉回路で14mm以下にして磨鉱場へ送る。

以下に森口氏の論文を転載して、破砕場の工程を説明する。
(受入,破砕)
 各鉱床より採掘された鉱石は、坑内に設置したブレーキクラッシャで、ほぼ120ミリ以下に破砕を行なつた後、ベルトコンベヤにより破砕場粗鉱舎に受入れられるほか、一部露天採掘による鉱石はダンプカーにより直送される。
破砕は乾式処理で、最大能力150トン/時程度であるが、鉱石特性に基き、藤島坑元山系と、それ以外の一般系(註 五号坑と周辺坑)に大別して、時間別運転により2系統処理を行なう。両者の比率はほぼ 1:1である。
受入鉱石は、まずグリズリにより粉、塊鉱に分けた後、塊鉱は914ミリ×610ミリのブレーキクラッシャで約50mm以下に粗砕を行ない、また粉鉱は2台のバイブレーティングスクリーンを経て14mm以下の除去を行なつた後、それぞれ中砕工程に送られる。
中砕は4台のコーンクラッシヤ(1,650ミリ径×3台、1,200ミリ径×1台)とバイブレーティングスクリーンとの閉回路操業により、最終的に14mm以下に破砕のうえ、前記の粉鉱と共に摩鉱場に送鉱されミル原鉱とする。

「磨 鉱 場」
 磨鉱工場に入ると、何よりもすさまじい機械の轟音に驚かされた、とても長くは工場に留まれないほどである。二段に配置された多数の機械には、直径15センチ程の鉄球が入れられ、回転するドラム状の機械の中でぶつかり合いながら、鉱石を摺り(磨鉱)潰しているのだ。鉄球は次第に磨耗するので、大小の鉄球がうまく鉱石を微粉砕するのだろう。
昭和38年頃からは、特に硬質な藤島坑の鉱石の受け入れで金銀の実収率が下がり、その処理に苦心した様子が伺える。

鉱山の事業案内では、磨鉱場を次のように紹介している。
 一次磨鉱はコニカルミルストレート分級機、二次磨鉱はチーフやミルバウル分級機の閉回路により325メッシュ、70%程度に粉砕する。ミル給水は青化液を用い、磨鉱工程の段階から金・銀の溶解を行をっている。

以下に森口氏の論文を転載する。
(磨 鉱)
 磨鉱は湿式2段磨鉱法により、最終産物粒度マイナス200メッシュ約95%程度に微粉砕を行なう。
ミル原鉱は消石灰の適量と共に、2台のコニカルボールミル(2,400ミリ×l,200ミリ)とドル分級機との閉回路操業で一次磨鉱を行ない、マイナス200メッシュ30%内外に粉砕のうえ、バウル分級磯4台に配分・給鉱され、それぞれチューブミル(1,800ミリ径×4,800ミリ、1,800ミリ径×3,600ミリ)との閉回路で二次磨鉱を行なうが、鉱石特性の差異に基き系統別に処理を行なう。とくに藤島・元山系の微粉砕化に留意する他、1,800ミリ径×4,800ミリ チューブミル1台をアトリッションミルとして使用する。
なお磨鉱系統における使用水は、すべて靑化工程よりの繰返し水を用いる。

「靑 化 場」
 靑化場は、磨鉱場で泥状に砕かれた鉱石から、金銀等の産物を澱物として回収する工程である。
この工場は、破砕場や磨鉱場と違い比較的静かである。特にシックナー室は直径が約13メートルで深さが5mのタンクが4基、アジテーター室は直径が9.7mで深さが8mのタンクが8基も立並び、タンク内の泥を掻き回す羽状の装置がゆっくりと回転している。
 次のオリバーフィルターの工程は、とてもダイナミックな動きをする装置であった。直径が5メートル近い円筒形の表面は、厚い綿製の布(註)で覆われ、円筒形の内部は何箇所かに仕切られて、バキューム(真空)ポンプの働きで泥液から溶解液を吸い取る区画、泥をハガシ落とす区画など、回転しながら次々と繰り返し、飽きないで見ていられた。
工程の詳細は、事業案内と森口氏の論文に頼むとして、廃泥処理に触れてみる。
従来は木樋で沈澱池に流していた廃泥は、昭和28年(1953)から扞止堤沈澱池に送泥され堆積を始めた。扞止堤沈澱池はクオノマイ沢を堰き止めた、ダム状の沈澱池である。詳細は「扞止堤沈澱池」の項をお読みいただくとして、沈澱池は製錬所よりもかなり高い位置に有るため、廃泥を200馬力のスライムポンプ2台で、240mも山上に押上げてから沈澱池に流した。

鉱山の事業案内では、青化場を次のように紹介している。
 磨鉱された鉱泥はシックナーで濃縮した後、適量の青化ソーダ、消石灰、酸化鉛を加えてアジテー夕ーで約70時間かくはんして金、銀を溶解し、オリバーフィルターで鉱泥から金液を分離する。
金液はバッタースフィルターで再濾過した後、脱酸し粉末亜鉛を加えて金・銀を澱物として回収する。最終オリバーフィルターのケークは、尾鉱としてスライムポンプによって扞止堤に流送推積する。

以下に森口氏の論文を転載する。
(青 化)
 磨鉱産物はパルプ濃度11~12%程度なので、これを4台のトレーシックナー(12.2m径×3台、13.7m径×1台)で、約48%程度に濃縮の上コンディショナに給鉱され、ここで消石灰、青化石灰、リサージ等の薬品添加を行なつた後、9.75m径×7.9mのドルアヂテータ6基シリースで約60時間の浸拌溶解を行なうが、この中間において、さらにチューブミルによるアトリッション処理を行なうことにより溶解の促進向上を計っている。
溶解終了後のアヂテータ排泥は、4.88m径オリバーフィルタでの2段濾過法により濾過洗浄を繰返し、最終ケークはリバルピングの後、尾鉱として廃棄する。
一方、金銀濃度の高い1次オリバーフィルタ溶液と、トレーシックナオーバーフローの一部は、バッタースフィルタにより再度濾渦清浄を行ない、さらにクロータワーで脱酸素の後、亜鉛粉末を添加してメリルプレスに圧入し、金銀等を置換沈殿せしめた上で濾過、分別する。
また、プレス廃液はオリバーフィルタケークの洗浄等に使用する他、一部は弱液と合して磨鉱用水(原液)として使用する。

 註 鉱山では「ズック布」と、称していた


「精 金 場」
 精金場は製錬所から2キロ離れた、元町の中央販売所の道路向いで、分析所と並んで建っていた。
製錬所で澱物として回収された金銀は、精金場で金銀の精地金に精錬し、四国の新居浜製錬所で電気分解されて、純金・純銀になる。
また、金銀以外にセレンなども副産物として生産された。

以下に森口氏の論文を転載する。
(精 金)
青化場より回収した青化澱物は金3,6%、銀56%、セレン5.0%程度を含有するが、これを焙焼炉の余熱で乾燥後、4基のロータリーキルン456ミリ径×2.5m)により700~750度の熱で焙焼を行ない、含有するセレンをSeO2(二酸化セレン)として飛散せしめた上、溶剤として硼砂・珪砂を配合し、傾転式熔解炉において1,100~1,200度でカラミ分離を行ない、さらに黒鉛ルツボで再溶解精製のうえアノード鋳型に鋳込む。
精地金は、金6,5%、銀92,5%程度で別子鉱業所電錬工場へ輸送する。また、分離したカラミは、なお金200~300g/トン、銀15~20kg/トンを含有するので国富製錬所に売鉱する。
焙焼炉で飛散せしめたSeO2は、昇華塔およびコットレル収塵機で捕収した後、純水溶解、濾過、イオン交換精製を行ない、不純物を除去した亜セレン酸溶液にSo2ガスを通じて金属セレンに還元し、水洗、粉砕、乾燥の上用途に応じ粒状、または粉状セレンとして市販する。製品純度はSe99,9%以上である。


「鴻之舞金山で使われた鉱山用語」

鉱山用語を集めてみた。文章の中にも用いているので、記憶にあるものを記し解説してみる。

通洞    
 坑口を持つ主要な運搬坑道のこと。また 長く直進する探鉱坑道にも使う
坑内・坑外
 坑口を境に、内と外を分ける
入坑・出坑
 坑口から坑内に入る事、出る事。
出鉱
 坑内から鉱石を搬出すること
ヒ押し・脈押し   
 鉱脈なりに掘進する事
立入れ 
 脈押しの坑道から、直角に掘進する坑道。目的は脈幅の確認または並行脈の探査
切替坑道  
 坑道が1本では不足になると、運搬を目的に下盤側の岩盤内に並行して掘る坑道
中段(ちゅうだん)坑道
 上部坑道との中間で掘られる坑道。または採掘場の準備坑道等
手掘り坑道
 人力で発破孔を掘さくして掘る坑道。辺鄙な場所では再開後にも掘られた
切上がり  
 1.2m X 2.3m角で水平坑道から掘り上がる。上部坑道との連絡または空気の通路、また脈幅と品位探査が目的、切り上がり内を人道と岩石 を落すルートに分けて板で仕切る
採掘場(採鉱場)
 大きな採掘場では、30mから60m長さに設定する。下の坑道から掘り上がっていく。両側に切上がりを配置して人や機材の出入りに使う
竜頭
 採掘場が掘り終わる時に、坑道の踏前や天磐、また採掘場と切上がりの間に残る残鉱石の部分を言う。鉱床の終掘などには「竜頭払い」 をして可能な限り完掘を計る。
目抜き
 採掘場の鉱石の抜き落しのために、約1.2m X 2m角で掘る切上がり。また採掘場と切上がりとの水平通路
漏斗
 切上がりや鉱石抜き落しの目抜きに設ける、木造の鉱車への積込み施設。太い坑木(丸太)と厚板で頑丈に造られる
竪坑    
 垂直に掘られた坑。大きな竪坑では断面が約10m x 3m米角にもなる。下部開発の重要な基点にする。物資と作業員の運搬手段に使い 排 水管も通す
斜坑
 鉱脈の傾斜にならって掘る坑。もっぱら鉱石の運搬に使い、人は運ばない。竪坑よりも手軽に掘れるので、小さな鉱床でも利用される
プラット(プラットホーム)
 竪坑の乗降作業場を言う。約35m間隔の坑道ごとに設けられていた。この現場に勤務する人をプラットマンと呼び、職名も同じであった
現場
 作業場
切羽
 坑道・切上がり・採掘場など、掘削現場の事。「切羽の数は」などと使った
加背
 坑道の掘さく面・正面・切羽。「加背の大きさは」なとど使った
天磐・天端
 坑道・採掘場などの天井のこと
踏前
 坑道の床面のこと。「踏前を下げる」などと使う
ドベラ
 側壁の事。側壁が崩れることを「ドベラが返る」と言った
発破
 火薬を使って岩石を砕く事を言う。採掘場・坑道掘進の発破と、漏斗に詰まった大塊を火薬で砕く張付け発破がある
留付け
 坑道の支保のこと。岩磐が堅牢であれば素掘りで済ますが、崩落の危険があれば、坑木と矢木(割り木など)で囲う
支柱
 天磐を支える丸太の柱
足場付け
 切上がりや採掘場の作業足場付けの事。足場は、両側の岩磐にハンマーとタガネで窪みを掘り、直径15cmほどの丸太を3-4本渡して厚板 を敷く
コソク(姑息)
 天磐や側壁の浮石を取り除くこと。発破の後では念入りに行う。のちには「浮石を取り除く」と分りやすい言葉を使った。岩盤を突いた り叩いて浮石を調べるが、熟練しないと浮石の範囲を見極めるのが難しい
銀黒
 石英の鉱石に黒く縞状に付く模様の事。特に銀品位が高いと現れる事が多い
上磐、下磐
 傾斜が付いた鉱脈の、上側の岩磐と、下側の岩磐
ガマ
 鉱脈の中の空洞、亀裂の大きいもの。まれに六方石の大きな結晶を見る事がある
ズリ
 廃石のこと。岩石の他に鉱石でも品位が低いと、ズリ捨て場に運ばれる
人道
 人間だけが通る傾斜の階段通路、30度から35度の傾斜で稲妻状に掘る。上下の坑道差が35mで、階段がおよそ175段になる。竪坑で昇降で きない場合に通行するが、何層もの人道を昇るのは大変なことだった
通気
 坑内の空気の流れ。発破の煙り・粉塵・湿気などを取り除き、新鮮な空気を確保するために、通気の確保に努力した。必要な場合には大 型ファンを坑口に設置し強制的に換気をした
ヨロケ
 長期間粉塵を吸うと、じん肺症になる。昔はじん肺症が進行して、仕事が出来なくなった人の事を「ヨロケた」「ヨロケにかかった」と 称した


「坑内用具」

坑内帽
 アルミ製で頭部の保護具。打撲と落石対策に着用が義務付けられた
保安靴
 足部の保護に、つま先に鉄板が入ったゴム長靴、安全のために着用を奨励され、購入時には補助があった
カンテラ
 蓄電池式ランプの前に使用した、カーバイトを使った作業用の灯火。酸欠ガスの発生区域では、必ずカンテラを携行した
みち火
 火薬に点火する際の導火線。後にさく岩作業の発破には電気雷管が導入された
キューレン
 さく孔作業の仕上げに、孔内から繰り粉(残粉)を掻き出す道具。直径1cmほどの丸鉄棒の先端を耳掻き状に加工する
アンコ
 発破孔に火薬を込めた後に詰める粘土
込め棒
 発破孔に火薬を押し込んだり、アンコを突き固める木製の丸棒
コソクタガネ
 浮石を取り除く道具。直径2~3cmの長さ2mほどの鋼鉄の丸棒。片側は尖らし、反対側は割れ目のない釘抜き状に平たく曲げた
カナミ(金箕)
 40cm × 30cmほどの大きさで、両側に持ち手が付いた鉄製の箕。鉱石やズリ石の積込みに使われたが、作業が機械化されるにつれて、使わ れなくなった
カッチャまたはガッチャ
 鉱石またはズリ石をカナミに掻き込む道具。木柄に三角形の鉄刃が付く鍬状の用具
坑木
 末口の直径が12cmから15cmで、長さが2.4mほどの丸太
矢木・矢板
 留枠と留枠に差し掛けて落石を防いだり、側壁の崩れを抑える木材。昔は松丸太を割って矢木にしたが、後には小丸太を挽き割った
留枠
 坑道の支保のこと、留枠を組むことを「留付け」と言った。通常4尺(1.2m)間隔に施工するが、支えが足りない場合には、間留を入れて補 強する
チップラー
 鉱車を横転させて鉱石を空ける装置。線路の延長上に設置し、1トン鉱車2台、または2トン鉱車を押し込み、動力で横転させて鉱石を空け る
エアー
 圧縮空気のこと