紋別市(郷土博物館)編「鴻之舞金山ものがたり」より一部抜粋、参考にさせていただいております
Ⅰ・北辺のゴールドラッシュ
2・ヤソシ金山
明治37年(1904)ころ枝幸の砂金掘りのうち数人が紋別に移住してきました。この人々が紋別で砂金掘りを続けていたかは定かでないのですが、枝幸砂金に刺激をうけたオホーツク海沿岸の砂金熱には凄まじいものがあったことから、
紋別地方の山野を砂金掘り達が放置していたとは考え難いです。このことから枝幸金山に続くヤソシ砂金が発見されるのは時間の問題であったのかも知れません。移住者の一人「菅原栄之進」は移住後の紋別で小漁師をしていました。
明治38年(1905)ホタテ漁が思わしくない状況で生活も困窮し、その年も暮れようとしていた12月20日、菅原はヤッシュウシナイ(八十士川)上流で優秀な砂金場を発見したのです。この噂は砂金を懐に入れた菅原の豪遊から、瞬く間に噂を呼び紋別中に広まりました。
ヤソシ金山
Ⅱ・鴻之舞(クオマナイ)
測量小屋
元山露頭近辺
翌4年(1915)秋、モベツ川上流の、現在の名称・金竜の沢で砂金を発見し不正確な「拓殖五万分図」で鉱区の出願をしましたが、この噂を聞いて共願者が相次いだため、鉱務所による臨検がなされることになりました。沖野と羽柴は
この臨検に備えるため正確な略図が必要とのことで、この年11月23日、沖野と羽柴は中で鴻之舞の探査を行いました。しかし目指す石英ははあったものの、その結果は思わしくなく、翌5年の1月クオマナイの沢に出かけていきました。これがいわゆる元山大露頭の発見につながります。
大正5年(1916)3月13日、鴻之舞鉱区の設定は代表・沖野永蔵、共同権者・羽柴義鎌の名をもってなされました。以後巻き起こる共願合戦は「紋別市史(昭和35年)」「鴻之舞五十年史(昭和43年)」に詳細な記述が残っています。
2・鉱山名
大正8年・吉田久太郎が料亭「藤の屋」に書き残した鴻之舞命名の額
3・売 山
共同組合による業績はすばらしい成績を上げていたといわれますが、鉱山の開発から精錬設備までとなると、予想以上の運転資金を必要とするため、共同組合はしょせん寄り合い所帯であり、近代的な採金技術等を含めて地方の共同組合では背負いきれない事業でありました。
その反面、鴻之舞鉱山の噂はたちまち業界に知れ渡り、藤田鉱業、三菱鉱業、久原鉱業、住友鉱業などから買収の手が伸びてきました。このことから組合内部には「継続経営」か「売山」かという論議が再燃しましたが、結局は企業に売山の意見にまとまることになりました。
大正6年(1917)2月18日住友との間で売買契約が成立し、住友では鴻之舞鉱山の鉱区内における一切の権利および施設を90万円で買収することになりました。
当時の住友総本店
当時の社長・住友吉左衛門は「家の至宝」と喜び、
あなうれしこがねのはなのうつりきて
いずみにちよのかげぞうかべる
という和歌の一首をよんだと云います。
90万円の金は、羽柴義鎌が15万円、飯田嘉吉14万円、沖野永蔵13万円、池沢亨11万円、今堀喜三郎7万円、岩倉梅吉5万円、橘 光桜3万円、鳴沢弥吉3万円(中野は不明)、吉田久太郎5万円などの分配をしたようです。ちなみに紋別市史(前述)では、 これら大金を手に入れた人々の数奇な運命を次のように紹介をしています。
羽 柴 義 鎌
栃木県出身で鴻之舞発見者の大殊勲者である羽柴は、面長でひげが濃く斗酒なお辞せずの風貌があった。印刷業でありながら文筆の才能にも富み、網走新聞社の支局長も努め、売山後間もなく一番最先に紋別を引き揚げ、東京の小石原に寓居した。 たまたま第一次大戦の好況期に遭遇して新会社の設立に関係したのが災いし、大正8年からのパニックで全ての産を失ったことは有名である。婦人の清乃は昭和33年に死去した
沖 野 永 蔵
ホタテ漁のかたわら、余暇があれば夢を砂金探査につないでいた人物であるが、売山後は漁業をやめ、沢田という技師を招き、市内の大山水源地付近で金山開発に着手した。約1年間にわたり坑道を掘進し探鉱に努めたが失敗に終わり3万円ほどの大金を失った。
大正7年頃金沢市の七宝町に引き揚げ豪華な居を構えたが、ここでもまた宝達山という砂金鉱に手を出して大金を失ったと伝えられている。
飯 田 嘉 吉
明治31年徳島県移民団体長として市内渚滑に入植したが、間もなく居を紋別に移し、渚滑、滝上両町にまたがる造材業を一手に収め紋別の有志として声望があった。渚滑川が久しきにわたって飯田流送組の独壇場であったことは世人のよく知るところである。 「紋別漁業港」築設に奔走してその実現を図った恩人でもあった。売山後は北見木材株式会社を起こし、渚滑駅前で大規模な製材事業を経営したが、大正11年8月の風水害による渚滑川の出水で木材約10万石を流失し、さらに翌12年には関東大震災のあおりで 取引先からの手形被害などが重なる不運で再起不能となったことは惜しまれている。晩年は東京青山で余生を送り昭和8年死去した。
池 沢 亨
明治37年渡紋し、紋別村の初代村長や湧別村長を歴任した。売山後は鉱業一筋で終始、大正7年・生田原ウラシマナイの鉄鉱山で約5万円の損失を被ったといわれている。大正13年からは札幌の寓居で余生を送ったが、昭和6年から8年にかけて後の鴻之舞・山王鉱の前身である山王鉱山を開発し、昭和12年死去した。
岩 倉 梅 吉
売山仲間では最後まで財を失わなかった一人で、大正8年紋別町の初代町長を努めるなど町の公職にも参画して町勢の発展などに終始努力をした。明治、大正、昭和にわたり実業界で活躍し、紋別随一の資産家としてしられていたが昭和26年8月死去した。
今 堀 喜三郎
発見者中の最年少者であった彼は売山後、札幌に居を構え鉱業人として道内足跡至らざるところなく、この間幾十の鉱山開発に関係して、沼の上、下川などの鉱山は有名である。金には恬淡でよく儲けもしたが気前よく散じるといった鉱業人の典型的な人物であった。
晩年は「三菱金属鉱業札幌支店」の調査係・顧問格を努め、昭和31年には本道鉱業開発の功労者として知事賞を受け、昭和34年2月死去した。
橘 光 桜
宮城県の出身で鉱業を語れば漢語まじりで談論尽きるを知らぬ熱血漢であった。売山直後、丸玉旅館・高橋兼太郎の愛嬢ハツ子を妻に迎えて二重の幸運に恵まれ鉱業には烈々たる闘魂を傾けただけに、武雄威鉱山を開発して業界にその名を知られた。
鳴 沢 弥 吉
市内モベツ村農業開拓の草分けといわれる、先代・鳴沢小十郎の長男で、鴻之舞を住友に売山するときに人まで付けて売られたと聞くと一瞬ドキリとする話であるが、鳴沢弥吉こそその人であり、住友が操業に入ってからも十数年にわたり開発に協力をした。 銃を肩に蚊や虻の群がる山中での地表探鉱は通常人のよくするところではないが、鳴沢は持ち前の闘志と健脚で頑張りぬき、どんな笹薮でも平気でこぎ抜ける技や、谷間で苔の被った石英の転石を見つける目の早さ、 深山に分け入ってその方向を誤らぬ勘の良さなどは余人の到底およばぬところであり、後に音羽鉱山の記録を残している。昭和32年1月に死去。
吉 田 久太郎
売山後は住友から優遇され、八十士砂金山や鴻之舞周辺の隣接鉱区買収に働いたが、札幌では佳人を落籍して業界に艶名を馳せたことも有名である。その後株式市場に手を出して失敗し、吉田こそは、華やかな前半生に比べ没落の後半生を歩み早逝したと伝えられている。
Ⅲ・鴻之舞鉱山
東洋一を誇った金山
閉山と共に消えた わたしたちの故郷
新たな資料館づくりからの地域力-
鴻之舞に関わられた人たちの想いを
いまに受け止め敬い、次世代の子どもたちへ
ここに 描きます-
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最終更新日 2024.6.6
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