鴻紋軌道(こうもんきどう)とは、住友が当時約250万円をかけて、戦時色が強まった昭和15(1940)年10月に着工し、鴻之舞鉱山が休山した昭和18年6月に完成しました。完成前の試運転時から住民の方たちは乗車利用していました。区間は当時の鴻之舞鉱山元町から現紋別市花園町までの距離28kmであり、途中駅は14存在していました(以下参照)。港も持つ紋別市街中心部を結ぶ鉄路であるのに、鉄路名の最初に鴻之舞の"鴻"を使用していることから、いかに当時は紋別市区域の中で鴻之舞地区の人口と存在が大きかったかが想像できます。戦後は、連合国軍総司令部(GHQ)から同鉱山の操業が認められた昭和24(1949)年までであり、運行期間はわずか6年間でありました。この軌道は休山中には、住民の乗車や学徒動員はもとより機械類や設備を他鉱山へと運び出し、戦後は新しい鴻之舞鉱山の施設や設備の搬入、戦後に特に不足していた食糧などを運んでいました。しかし、この役目が終わるとすぐに鉄路は解体されてしまいました。
区間経路 ■元山駅-元町(学校裏)-住吉-■末広(五号坑)-栄町-■桜町-曙-長島-中藻別-野中(弥生公園)-木原-草鹿-銅山-■紋別
(■マークは駅舎で4ヶ所、その他は昇降所)
わずか6年間の運行ながらも、この鴻紋軌道に対する鴻之舞関係者の思い入れは、ゆかりある関係者の書物より非常に大きいことがわかります。"官行の汽車"とも呼ばれ、住民に愛されていました。
文芸オホーツク11、12号には、玉葱煙突や汽車のこと、無蓋貨車(屋根のない運搬車)に乗り火の粉がかかった話、有蓋貨車に満員で乗り込んだ話など、尽きぬ想い出がたくさんと記されています。
鉄道や廃線跡に大変お詳しい国分貴文様より、この鴻紋軌道への以下のご見解をいただいておりますので、ご紹介致します。
1、B型サイドタンク式機関車であること。(テンダー式ではない)
2、日立製作所の製品であること。
3、文献や写真を見る限りでは、森林鉄道に特有の煙突なので、煙突の中には火の粉止めの装置が入っているであろうこと。
4、千歳鉱山や遠軽町丸瀬布の森林軌道※などにも共通部分があり大変似ていること。
詳細と致しましては、B形サイドタンク機関車(日立製作所笠戸工場製、主に当時、道内の森林鉄道向きに納入実績あり)
動輪径 610mm、ホイールベース 1143mm、運転整備重量 8.3トン
弁装置 ワルシャート式
鴻之舞への納入は13トン 1B2型 3両、昭和16年12月~昭和17年2月
(参考文献;小熊米雄著「日本における森林鉄道用蒸気機関車」、宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くX」、中村由信編「汽車の本SL総集編」ほか、「写真で見る北海道の鉄道 下巻」、「知られざるナローたち」、「道内鉱山鉄道機関車資料」より)
なお、撤去後の動体につきましては、鴻紋軌道廃線ののちに十勝上川へ行き、昭和31年6月に廃車との記録です。(十勝同人誌トカプチ第9号より)
※丸瀬布のものは内燃式と呼ばれる機関車ですので、石炭を使用していた鴻紋軌道とは異なります。
東洋一を誇った金山
閉山と共に消えた わたしたちの故郷
新たな資料館づくりからの地域力-
鴻之舞に関わられた人たちの想いを
いまに受け止め敬い、次世代の子どもたちへ
ここに 描きます-
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最終更新日 2024.6.6
北海道紋別市上藻別297番地1
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